天正十年(1582年)6月15日は、安土城が炎上したとされる日です。
天下人・織田信長の本拠地がなぜそんな憂き目に……?
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というと皆さんお察しの通り、同年6月2日、明智光秀によって本能寺の変を起こされ、周辺の状況が一変していたからです。
信長のシンボルだった安土城は、まず明智の手によって城内の金品財貨を簒奪されると、15日、火の手が上がりました。

安土城図/wikipediaより引用
犯人は今なお不明。
ただし、当時燃えたのは天主と本丸だけで、大部分は残っていたとも伝わりますが、現在は石垣等がわずかに残るだけで、かつての面影は無きに等しいものです。
一体何があったのでしょう?
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誰が燃やしたのか?
前述の通り、安土城の炎上については原因がよくわかっておりません。
そんな仮説が立てられ……。

現在の安土城(天守台跡)
さらには
「信長の次男・織田信雄がアホだから焼いてしまった」
という記録が混じっているのがまた何というか……。
『日本西教史』という宣教師たちの記録に出てくるそうですが、いくら何でもヒドすぎませんか。
確かに信雄は「やっちまった!」なコトが多いですが。
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残った二の丸その他は、清洲会議の結果、織田秀信が使うはずでした。
織田秀信とは信長の父ちゃん・織田信秀ではありません(「信」と「秀」が逆)。
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三法師です。
清州会議で豊臣秀吉が担ぎ上げた織田信長の孫(嫡男・織田信忠の息子)です。
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しかし、会議の後、信長の三男・織田信孝らが「それは納得がいかん!」と言い出し、結局、このゴタゴタが一因となって賤ヶ岳の戦いが起きてしまいます。
秀吉「新しい城の邪魔だから壊すか」
その後、織田秀信は坂本城(かつての明智光秀本拠地)へ移され、安土城は秀吉に取り壊されるという悪夢の展開になりました。
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理由も酷い。
「甥の豊臣秀次が近くに城を建てるから、その材料に使わせていただきますね^^」
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まぁ、自身の天下が近づいてきて、信長色を消し去ってしまいたかったのでしょう。
安土城天主の完成が天正七年(1579年)ですから、信長が精魂込めて建てた城は、十年もせずに綺麗さっぱりなくなってしまいました。
築城担当者は、米五郎左こと丹羽長秀。
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彼はこのとき生きていましたから、胸に迫るものがあったでしょう。

安土城跡からの眺望(田園風景の先に琵琶湖)
晩年の秀吉が、信長の悪夢に怯えていた――なんていかにもな逸話があったりするのは、真偽の程はさておき、こうした所業から来ているのでしょう。
確かに酷い話ですが、信長色を払拭するのに秀吉が必死だったのは、哀れみの思いも湧いてきます。
心から同情できないのは、次に作った城があまりにもゲスい位置に建っていたからです。
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