絵・小久ヒロ

織田家

信長三十六功臣の一人・坂井政尚とは?信長信忠に殉じた名無き功臣

武田信玄の武田二十四将や、黒田官兵衛の黒田二十四騎など。

戦国大名には、当人と有能な家臣を示す言葉がありますが、実は織田信長にも、この手の言葉があったのをご存知ですか?

それが「三十六功臣」です。

信玄や官兵衛よりも12人多い36人――というのがなんとも矜持を感じさせるもので、織田信長を祀る建勲神社たけいさおじんじゃの創建時(1870年)に選ばれたとのこと。

現在、拝殿には該当する武将らの絵が飾られています。

※新人物往来社より『織田信長公三十六功臣』という書籍も1999年に発売(国立国会図書館ナビ

では、その36名とは誰なのか?

ざっと表にしてみますと……。

織田家三十六功臣
池田恒興 平手政秀 平手汎秀 堀秀政
豊臣秀吉 柴田勝家 丹羽長秀 佐久間信盛
佐久間盛政 佐々成政 前田利家 滝川一益
村井貞勝 山内一豊 毛利新助 簗田広正
森可成 森蘭丸 蒲生氏郷 河尻秀隆
坂井久蔵 坂井政尚 原田直政 細川藤孝
道家尾張守 湯浅甚助 福富貞次 不破光治
織田信業 織田信光 菅谷長頼 武井夕庵
稲葉一鉄 猪子兵助 氏家卜全 斎藤利興

後に大名になった者、どころか天下人になった秀吉、あるいは大河ドラマの主役になった者もいる一方、ほとんど名前を見かけることのない者まで、まさに多士済々のラインナップですね。

今回、注目したいのは坂井政尚――。

パッと見た印象としましては、中川重政に近いでしょうか。

【織田家臣団十傑の一人】中川重政は所領争いが原因で表舞台から消え去った?

続きを見る

信長が天下に王手をかける前に散ってしまい、目立たないのが惜しい、そんな武将の一人です。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

美濃攻略から信長の上洛にも付き従い

織田家臣団には坂井という姓の人物が複数おり、政尚はどの家の出であるかは特定できません。

出身は美濃であり、斎藤氏から織田家に仕えるようになりました。

織田家への出仕時期は早いとされております。

織田信長
織田信長の人物像に迫る!生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ【年表付】

続きを見る

美濃攻略に活躍すると、東美濃の明智城主に就任。

この明智城は、明智光秀に縁が深いのではないか?とも目されますが、決定的な史料がなくもどかしい存在であります。

その辺の詳細は以下の記事にお譲りして、

明智城の戦い~光秀や光安の居城はどうして高政(義龍)に攻められた?

続きを見る

先へ進みましょう。

永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛しました。

信長と義昭 上洛戦の一部始終! 岐阜から京都までどんな敵と戦っていた?

続きを見る

その際に付き従っていた四名が以下の通り。

坂井政尚
柴田勝家
蜂屋頼隆
森可成

いずれも織田家には欠かせない武将ばかりですね。

柴田勝家(織田家の重臣)当初は信長の敵だった鬼柴田62年の生涯まとめ!

続きを見る

蜂屋頼隆は信長親衛隊「黒母衣衆」から大名へ! 秀吉にも重用された生涯とは

続きを見る

森可成(信長お気に入りの重臣)蘭丸や長可の父はどんな武将だった?

続きを見る

この四名は、勝竜寺城攻めに参加。

首を多数あげ、政尚も名を上げております。

 

姉川では嫡男の久蔵を喪う

信長に従い、無事に京都へ入った四名。

そこに佐久間盛信も加わり、彼ら五名が京都と近畿の内政を担当しました。

禁制の発布や税金の徴収など。

来たる織田の天下に向けて、地固じがためをしたのが政尚です。

この五人組は永禄12年(1569年)春まで手を組んで働いており、さらに後任者が追加されました。

丹羽長秀
木下秀吉
明智光秀
中川重政

後に大出世を果たす、織田家臣団でも錚々たる面々ですね。

このあと政尚は名だたる合戦に参加しております。

代表的なものは、

姉川の戦い(信長vs浅井朝倉)をスッキリ解説! 実質引き分けだった?

続きを見る

小谷城の戦い(信長vs長政)で浅井家滅亡!難攻不落の山城はなぜ落ちた?

続きを見る

でしょうか。

苦戦を強いられた「姉川の戦い」では、嫡男・久蔵が討死を遂げております。

その後も浅井朝倉との対戦に身を賭す――それが政尚でした。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-織田家

© 2021 BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)