坂井政尚

『太平記英勇伝二十九』の坂井尚政(作・落合芳幾)/wikipediaより引用

織田家

信長三十六功臣の一人「坂井政尚」織田家に殉じた名無き功臣の働きを振り返る

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織田家に殉じた坂井一族

元亀元年(1570年)朝倉・浅井軍が堅田に攻めかかりました。迎え撃ったのが政尚です。

この戦いは突発的に起こったものではなく、本願寺や浅井朝倉連合軍が手を取り行われた長期戦であり、戦況は厳しいものです。

【第一次信長包囲網】と呼ばれたりもしますね。

武勇で名高い政尚こそ、近江の重要拠点である堅田の防御に適任であると、信長は信頼していたのでしょう。

しかし、さしもの政尚でも苦しい戦いです。

2万とも3万ともいう規模の敵に対し、わずか千名の兵士と共に激闘に巻き込まれ、討死を遂げてしまったのです。

 


二男もまた本能寺で……

生年不詳のため享年不明。

坂井家は、長男・坂井久蔵が【姉川の戦い】で討死していたため、二男の坂井越中守が継ぎました。

同家にとっては不幸が続きます。

この二男もまた【本能寺の変】に遭遇し、織田信忠に殉じて討死を遂げたのです。

織田信忠/wikipediaより引用

この越中守が長生きしていれば、現代における父や久蔵の存在感もまた違ったのでしょう。

人気の戦国漫画『センゴク』で久蔵にスポットが当てられたのは救いだったかもしれません。

織田家臣団でも武勇を誇り、内政手腕も発揮していた坂井政尚――。

その嫡男として奮闘した久蔵も、織田家に殉じた越中守も、道半ばにして命を落としたために存在感が薄い。

本当の悲運とは、坂井一族のような人物かもしれない。そう感じさせる一族です。

※新人物往来社より『織田信長公三十六功臣』という書籍も1999年に発売(→amazon


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
建勲神社公式サイト(→link
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』(→amazon
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon
『国史大辞典』

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