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【坂井政尚】
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織田家に殉じた坂井一族
元亀元年(1570年)朝倉・浅井軍が堅田に攻めかかりました。迎え撃ったのが政尚です。
この戦いは突発的に起こったものではなく、本願寺や浅井朝倉連合軍が手を取り行われた長期戦であり、戦況は厳しいものです。
【第一次信長包囲網】と呼ばれたりもしますね。
武勇で名高い政尚こそ、近江の重要拠点である堅田の防御に適任であると、信長は信頼していたのでしょう。
しかし、さしもの政尚でも苦しい戦いです。
2万とも3万ともいう規模の敵に対し、わずか千名の兵士と共に激闘に巻き込まれ、討死を遂げてしまったのです。
二男もまた本能寺で……
生年不詳のため享年不明。
坂井家は、長男・坂井久蔵が【姉川の戦い】で討死していたため、二男の坂井越中守が継ぎました。
同家にとっては不幸が続きます。
この二男もまた【本能寺の変】に遭遇し、織田信忠に殉じて討死を遂げたのです。
この越中守が長生きしていれば、現代における父や久蔵の存在感もまた違ったのでしょう。
人気の戦国漫画『センゴク』で久蔵にスポットが当てられたのは救いだったかもしれません。
織田家臣団でも武勇を誇り、内政手腕も発揮していた坂井政尚――。
その嫡男として奮闘した久蔵も、織田家に殉じた越中守も、道半ばにして命を落としたために存在感が薄い。
本当の悲運とは、坂井一族のような人物かもしれない。そう感じさせる一族です。
※新人物往来社より『織田信長公三十六功臣』という書籍も1999年に発売(→amazon)
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
建勲神社公式サイト(→link)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon)
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
『国史大辞典』
他