京都御馬揃え

織田信長/wikipediaより引用

織田家

信長主催の軍事パレード「京都御馬揃え」はメンツも衣装もド派手過ぎ

2月下旬は織田信長関連の出来事をちょいちょい目にします。

新暦に直すと4月頃になりますので、春を迎えて何か行動を起こすのに適した時期だったのでしょう。

例えば、天正九年(1581年)2月28日は、京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)が行われた日です。

本能寺の変】前年のことで、信長48歳のとき。

これが、よく見てみるといろいろな推測ができて、結構面白いイベントなんですよ。

 

家臣だけでなく公家も参加OK

”馬揃え”というのは、簡単に言えば軍事パレードです。

騎馬武者の美々しさや馬そのものの優劣を競うもので、かつては源義経もやったことがありました。

源義経
史実の源義経はどんな生涯を送り最期を迎えた?鎌倉殿の13人菅田将暉

続きを見る

当時の武士や大名は、軍事の一環として名馬の収集に余念がありませんから、皆かなり体躯のいい馬に乗っていたはずですし、その威容を誇るのも対外的なアピールとしても自然なことかもしれません。

今で言うなら、海上自衛隊の観艦式に近い感じかと思われます。

このときは会場が内裏(天皇の住まい)の近くだったこともあり、正親町天皇も招待され、かなり大規模なものになりました。

「騎馬の心得があれば公家もおk」ということになっていたので、信長や家臣だけでなく、武闘派貴族・近衛前久(さきひさ)なども参列しています。

近衛前久
信長や謙信と親交深かった近衛前久~本能寺後に詠んだ南無阿弥陀仏

続きを見る

お公家さんって牛車に揺られているイメージが強いですが、自ら馬に乗る人もいたんですね。

 

光秀も先頭集団に連ねていた

さて、馬揃えに限らず、儀式には序列が必須です。

当然、身分が高い・もしくは年長者から順に並ぶのが定番ですが、この馬揃えについては例外な部分がたくさんありました。

出典が、信長の威光増し増しの『信長公記』ですので、すべて鵜呑みにしていいのかわからないのですが……。

まず第一番が丹羽長秀というのはいいとして。

丹羽長秀
信長に友と呼ばれた織田家の重臣・丹羽長秀 その生涯65年まとめ

続きを見る

二番以下四番までは比較的新参の者です。

中には明智光秀もいて、当時、彼が織田家内で高い位置にいたことがうかがえます。

明智光秀
史実の明智光秀とは?麒麟がくるとは何が違ったか?55年の生涯まとめ

続きを見る

まぁ、翌年裏切るんですけどね。

ちなみに彼らは近畿周辺の武士たちを率いていましたので、織田家としては「もはや地元は完全に押さえたぜ!」というメッセージが込められていた可能性もあります。

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は

続きを見る

 

長男・信忠の次は次男 そして三男ではなく……

次に続いたのが一門衆。つまり織田家の血筋に連なる面々でした。

もちろんその先頭は、当時すでに家督を継いでいた織田信忠です。

織田信忠
信長の嫡男・織田信忠(奇妙丸)ってどんな人?最期は光秀に狙われて

続きを見る

次に無能とされがちな次男の織田信雄

映画『清須会議』では妻夫木聡さんが演じられた奇異なキャラでしたね。

本能寺後は家康と手を組み、秀吉と対立しました。

織田信雄
愚将とされた織田信雄(信長の次男)は本当にダメ武将か?血筋は現代へ

続きを見る

以下、年齢順……かと思いきや、三番目は信長の弟・織田信包(のぶかね)で、四番目が信長の三男・織田信孝であり、わけのわからん状態になっています。

信包は信忠の補佐についていましたし、信孝は他の家へ養子に入っていたので、この辺が理由でしょうか。

織田信孝
信長の三男・織田信孝が迎えた壮絶な最期~秀吉に敗れて十字腹とは?

続きを見る

全体的に単なる年齢順にはなっていないので、信長が信頼していた順と見ることもできます。

となると信雄が二番目というのは……?

「織田信雄は単なる愚将ではない」と指摘される方もおりますので、もしかしたら有能だった可能性もありますよね。

 

武田家に信濃から追い出された小笠原の姿も

一門衆の後に続いたのが公家の人々でした。

上記の近衛前久は准三后(じゅさんごう・皇族以外で皇族と同等とする身分)を認められていましたので、公家の先頭でやってきます。

信長と個人的な親交もあり、武田攻略にも随行したそうですから、公家にしてはかなり武道にも通じた人だったんでしょうね。

その後は概ね官位順に並び、最後に小笠原長時という武士がいます。

もともと信濃(だいたい長野県)の大名だったのですが、武田信玄武田晴信)に追い出された後は近畿の親戚筋を頼り、この頃は信長の庇護を受けていました。

武田信玄
史実の武田信玄は最強の戦国大名だった?人物像に迫る生涯53年まとめ

続きを見る

小笠原氏は代々武家のしきたりを伝える役を担っていましたので、その性格から公家扱いにしたのかもしれません。

次に、信長お気に入りの騎馬兵や小姓たちを挟んで、越前衆というグループが続きます。

書いて字の如く、柴田勝家をはじめとした越前(北陸~新潟)方面の攻略軍に割り当てられていた武将たちです。

攻略の合間を縫って上洛・参加したそうですから、この馬揃えが織田家の中でかなり重視されていたことがわかります。

柴田勝家
当初は信長と敵対していた柴田勝家~秀吉に敗れるまでの生涯62年

続きを見る

ちなみに後々柴田勝家と敵対する羽柴(豊臣)秀吉は、中国地方攻略を進めていて不参加でした。残念。

その後はこれまた信長お気に入りの力自慢が続きます。「相撲大会でスカウトした」人とかですね。

力士ですからそうとう身体も大きかったでしょうし、よく馬が耐えたものです。

力士の次は坊主衆(×ハゲ ○ブレーン)だったらしいので、体格差でより大きく見えたでしょうね。

最後はもちろん、我らが信長サン!

織田信長
史実の織田信長ってどんな人?生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ

続きを見る

すでに数多の名馬を先行させていて、自分は「大黒(おおぐろ)」という馬に乗っていました。

天皇や上皇に用いられる中国(あるいはインド)製の効果な唐織物で衣装を調え、細川忠興が京都で探しだした小袖を着用。

とにかく綺羅びやかな出で立ちで、沿道の人々の度肝を抜いたようです。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-織田家
-,

×