大河ドラマ『麒麟がくる』ですっかり有名になった織田信長の父と言えば?
そうです「織田信秀」ですね。
高橋克典さんの好演が強く印象に残っている方も少なくないでしょう。
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では「織田秀信」はご存知でしょうか?
織田信秀とは「信」と「秀」の字が逆という、なんだかややこしいこの御方。
織田信秀
織田秀信
実は織田信長の孫なんですが、世間ではもっとよく知られた名前があります。
三法師です。
そう、天正10年(1582年)6月27日に開かれた清州会議で豊臣秀吉に担ぎ上げられた、あの三法師であり織田信忠の息子なんですね。
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信長の嫡男が信忠で、その跡継ぎである三法師は嫡孫にあたり、元服してから「織田秀信」になりました。
◆織田家の当主変遷
織田信秀(曽祖父)
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織田信長(祖父)
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織田信忠(父)
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三法師(織田秀信)
ただ……織田家の通字である「信」より「秀」が先に来ているあたりに秀吉の陰謀が感じられるのは気のせいでしょうか。
本稿では、三法師こと織田秀信の生涯を振り返ってみたいと思います。
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三法師こと織田秀信 1580年に生まれる
三法師こと織田秀信が生まれたのは天正八年(1580年)。
本能寺の変が起きたときは数え歳でわずか3歳でした。
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当然、清須会議のときも3歳です。
物心がつくつかないどころの話ではありません。
ただしそのおかげで京都近辺には行っておらず、岐阜城にいたおかげで助かりました。
が、そのままで済むはずもなく、織田家の継承問題から渦中の人となってしまい、清須会議により「跡継ぎは三法師様!」と秀吉にプッシュされ、3歳にして一家の主となりました。
当然、実務はできませんので、当分の間は堀秀政という信長の側近を務めていた人物に後見されています。
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親戚・家臣の間をたらい回し状態
幼いながらも織田家の跡取りであり、しかも信長の嫡孫でもある三法師。
不幸にも多くの親類筋や家臣たちから良い意味でも悪い意味でも一挙手一投足を見張られるような状態で、秀吉の政争相手である織田信孝(信長の三男)からは「お前、しばらく岐阜城にいろ」と圧をかけられてしまいます。
信孝は、三法師の父・信忠の弟です。
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つまり叔父さんから監視されるという何ともイヤな生活ですね。
親戚をたらい回しにされる子供のようで胸が痛くなってきますが、この一件に関してはすぐに秀吉が「三法師様を出せ!!」と言って兵まで繰り出し、無事に終息しています。
もちろん秀吉とて『三法師様がかわいい』とかそんな甘い理由ではなく、あくまで政争の一環。
清州会議の翌年に秀吉と柴田勝家が【賤ヶ岳の戦い】で衝突し、勝家と信孝が自害した後は、もう一人の叔父・織田信雄(信長の次男)の後押しを得ました。
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ただし、実際に身を寄せたのは親族の誰でもなく「米五郎左」こと丹羽長秀のところだったりします。
天正十六年(1588年)には岐阜城で元服したとされ、この幼児は年齢一ケタのうちに一体何度引越しをしたのか? と考えると、哀れになってきます。そして……。
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