幻の上洛計画

足利義昭(左)と織田信長/wikipediaより引用

織田家

信長と義昭「幻の上洛計画」織田はいつから天下を狙っていたのか

織田信長が、室町幕府15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛したのは永禄十一年(1568年)のこと。

信長と義昭の上洛
信長と義昭「上洛戦」の一部始終!京都入りまでどんな敵と戦った?

続きを見る

将軍をサポートしたことで細川藤孝明智光秀との関係も深くなり、織田家の躍進が始まるため、この1568年は織田家にとって大きな年となりましたが、実はその2年前にも、実行直前で断念した【幻の上洛計画】がありました。

それを示す書状が見つかり、大きな話題となったのです。

書状とは、熊本県立美術館らが発見したもの。

『信長からの手紙』展を準備するため関連資料を精査していたところ、同館と熊本大永青文庫研究センター、東大史料編纂所の共同調査で確認されました。

なぜ今頃になって「発見」とされたのか?

というと以下の図録にあるように「紙の裏側」に書かれていたからです。

正確に言えば、一度使った書状を後で再利用したため、裏側に記録が残されていたんですね。

少し詳しく見て参りましょう。

 

2年早い信長「幻の上洛計画」

まずは展示図録「信長からの手紙」から、その解説を引用してみますね。

<初公開の一色藤長・三淵藤英連署書状は、米田与右衛門家に伝わる医書の料紙の裏に書き込まれていた14通の同趣旨の文書のうちの1通。

永禄九年(1566)八月に矢島の義昭と信長の上洛計画が立てられたが、直前に六角氏の裏切りにあるなどしてそれが頓挫したために、発給されずに反故紙になって、そのために現在まで伝わったという、驚くべき文書である。>

(展示図録「信長からの手紙」より)

実は「幻の上洛計画」自体は研究者には知られていました(下にある永禄八年の信長文書などから)。

この書状は実際には発給されない「投函前のお手紙」ということで、大変に貴重な資料とされています。

赤字部分「矢島の義昭」とはどういうことなのか?

室町幕府13代将軍・足利義輝が、三好勢に攻められ自害すると、自らの身の危険を感じたのが当時僧侶だった足利義昭。

足利義輝
刀を握ったまま斃れる壮絶な最期~足利義輝13代将軍の生涯30年まとめ

続きを見る

奈良を脱出して、近江国(滋賀県)の観音寺城(近江八幡市)の六角氏を頼り、亡命しました。

その滞在先が矢島(滋賀県守山市)だったのです。

偉い将軍さまは直接お手紙を出さないので、形式的には部下が出しています。

このときは幕臣の三淵藤英(みつぶちふじひで)・一色藤長(いっしきふじなが)が書いています。

大河ドラマ『麒麟がくる』でもお馴染みの二人ですね。

三淵藤英
史実の三淵藤英(細川藤孝の兄)はなぜ信長に自害を命じられたか?

続きを見る

 

「地元で反乱です。日本海へ逃げてください」

原文はこのようになっています。

もちろん読めなくても問題ありませんので、サッと目をお通しください。

御退座之刻、其国以馳走
無別儀候、然者、為 御入洛御供
織田尾張守参陣候、弥被頼
思食候条、此度別被抽忠節様、
被相調者、可為御祝着之由候、
仍国中ヘ御樽可被下候間、
此等之通被相触、参会之儀、
可被相調候、定日次第可被差越
御使候、猶巨細高勘・高新・冨治豊
可被申候、恐々謹言、
八月廿八日 藤英(花押)
      藤長(花押)
菊川殿

菊川殿というのは、伊賀国か山城国の武士と考えられています。

義昭(このときは還俗して義秋)が奈良から脱出するときに協力した者たちですね。

義昭が幕府再興のために上洛する時に、尾張守の織田信長が協力してくれることになったことを伝え、義昭への忠節を依頼する内容です。しかし……。

足利義昭
信長と共に上洛し京を追われた足利義昭(15代将軍)その後どうなった?

続きを見る

織田信長
史実の織田信長ってどんな人?生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ

続きを見る

なんと、8月28日の翌日に、世話人だったはずの六角氏の裏切りが発覚。

直前で上洛計画は頓挫してしまい、近江を脱出した義昭は、若狭の武田氏を経由して越前(いずれも福井県)一乗谷・朝倉氏のもとへ亡命しました。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-織田家

×