果たして織田信長はどんな最期を迎えたのか?
はぁ?んなもん明智光秀に攻められたんだろ――とは確かにその通りですが、直接的な死因となると、本能寺が焼かれ、遺体も見つからずで実際は大きなナゾのままだったりします。
腹を切って自害したのか。
あるいは本能寺の業火に包まれたのか。
実は切腹後に遺体が外へ運び出され、荼毘に付された後、清玉上人という僧侶が阿弥陀寺で供養した――なんて話もありますが、今回は医学的な観点から、信長の死因に迫ってみたいと思います。
「なぜ光秀が信長を襲ったのか?」
その点につきましては以下の記事にお譲りし、
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なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は
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本稿では、現代に伝わっている主な説を踏まえ、医学的な見地から、現役の歴女医が考察してみます。
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どうやって京都へ?
天正10年(1582年)6月1日夕刻。
光秀は1万3000の兵を率いて亀山城を出立しました。
「敵は本能寺にあり!!」
なんて部下たちに堂々と宣言……してはいないでしょう。
光秀は、家臣たちに不審がられないよう、以下のように説明したなんて話もございます。
「蘭丸から飛脚が来て、信長さまが"中国攻めの準備は整っているか、馬などを検分したい”とのこと」
光秀の配下たちの中には、そもそもその上司の織田信長を慕っている家臣・足軽たちも多く、事前に「謀反と知ったら足並みが揃わなくなる」可能性があったからですね。
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史実の織田信長ってどんな人?生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ
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ゆえに光秀は、娘婿の明智左馬助(明智秀満)らの側近にだけ真意を告げ、明智軍全体としては目的を知らされずに一路本能寺へ進軍したと言います。
このウヤムヤ作戦が後に光秀の首を絞めるのですが、詳しくは後述させていただきます。
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内側から納戸を締めて、切腹した
さて、ここで普段使い慣れたヤフーサービスの「路線検索(電車)」を起動してください。
亀山城の最寄り駅・亀岡から、当時の本能寺近くの二条までの距離は?
答えは山陰本線で16キロ(320円)です。
意外と近いですね。隠密の進軍だったため、当日、光秀は人目を避けて大回りをしたようですが、2日の午前4時には本能寺をガッチリ取り囲んでいたと言います。
はい、ここでようやく昔流行ったお約束を投下です。
曲の中にもある通り、多勢の明智軍に対して信長配下はわずか30名(数十名)。戦国無双でなければ、まず勝てません。
小姓衆や御番衆、町宿から馳せ参じた武将もいましたが多勢に無勢で、善戦虚しく次々とやられていきます。
信長自身も弓やら槍で応戦しながら、その最期はいかに迎えたのでしょうか。
『信長公記』を参照してみますと
「御殿に火がかけられ炎の手が迫る中、信長は殿中の奥深くに篭り、内側から納戸を締めて、切腹した」
切腹したとありますね。
一方、本能寺のすぐ近くにあった教会・神父の記録を見てみますと
「或人は、日本の大名にならい割腹して死んだと云い、或人は、御殿に放火して生きながら焼死したと云う。だが火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない」
ハイ、そうなんです。
信長の遺骸は見つかっておらず、直接の死因=真相は闇の中。
冒頭で触れましたように、一説には阿弥陀寺(京都市)の清玉上人が遺灰を運んだという話もありますが、明智軍がウロついている中で一介の僧にそんなことできるのか?
一応、お寺の記録に残されているのですが、なかなか真偽の程は怪しいかなぁ、と。
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信長の遺体は清玉上人が阿弥陀寺で埋葬?本能寺もう一つのミステリー
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ともかく信長さんは本能寺で死んでおります。
その死因は一体何なのか。
切腹なのか、焼死なのか……。
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