信長の死因

織田信長と明智光秀/wikipediaより引用

織田家

信長の直接的死因は何だったのか 現代医師が考察! 一酸化炭素中毒の可能性は?

織田信長はどんな最期を迎えたのか?

はぁ?んなもん明智光秀に攻められたんだろ――とは確かにその通りですが、直接的な死因となると、本能寺が焼かれ、遺体も見つからずで実際は大きなナゾのままだったりします。

腹を切って自害したのか。

あるいは本能寺の業火に包まれたのか。

実は切腹後に遺体が外へ運び出され、荼毘に付された後、清玉上人という僧侶が阿弥陀寺で供養した――なんて話もありますが、今回は医学的な観点から、信長の死因に迫ってみたいと思います。

「なぜ光秀が信長を襲ったのか?」

その点につきましては以下の記事にお譲りしまして、

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか? 本能寺の変における諸説検証で浮かんでくる有力説

続きを見る

本稿では、現代に伝わっている主な説を踏まえ、医学的な見地から、現役の歴女医が考察してみましょう。

 


どうやって京都へ?

天正10年(1582年)6月1日夕刻。

光秀は1万3000の兵を率いて亀山城を出立しました。

「敵は本能寺にあり!!」

なんて部下たちに堂々と宣言……してはいないでしょう。

光秀は、家臣たちに不審がられないよう、以下のように説明したなんて話もございます。

「蘭丸から飛脚が来て、信長さまが"中国攻めの準備は整っているか、馬などを検分したい”とのこと」

光秀の配下たちの中には、そもそもその上司の織田信長を慕っている家臣・足軽たちも多く、事前に「謀反と知ったら足並みが揃わなくなる」可能性があったからですね。

ゆえに光秀は、娘婿の明智左馬助(明智秀満)らの側近にだけ真意を告げ、

明智左馬助(明智秀満)

『明智左馬助の湖水渡り』歌川豊宣/wikipediaより引用

明智軍全体としては目的を知らされずに一路本能寺へ進軍したと言います。

このウヤムヤ作戦が後に光秀の首を絞めるのですが、詳しくは後述させていただきます。

 


内側から納戸を締めて、切腹した

さて、ここで普段使い慣れたヤフーサービスの「路線検索(電車)」を起動してください。

亀山城の最寄り駅・亀岡から、当時の本能寺近くの二条までの距離は?

答えは山陰本線で16キロ(320円)です。

意外と近いですね。隠密の進軍だったため、当日、光秀は人目を避けて大回りをしたようですが、2日の午前4時には本能寺をガッチリ取り囲んでいたと言います。

はい、ここで昔流行ったお約束を投下です。

 

曲の中にもある通り、多勢の明智軍に対して信長配下はわずか30名(数十名)。戦国無双でなければ、まず勝てません。

小姓衆や御番衆、町宿から馳せ参じた武将もいましたが多勢に無勢で、善戦虚しく次々とやられていきます。

信長自身も弓やら槍で応戦しながら、その最期はいかに迎えたのでしょうか。

『信長公記』を参照してみますと

「御殿に火がかけられ炎の手が迫る中、信長は殿中の奥深くに篭り、内側から納戸を締めて、切腹した」

切腹したとありますね。

一方、本能寺のすぐ近くにあった教会・神父の記録を見てみますと

「或人は、日本の大名にならい割腹して死んだと云い、或人は、御殿に放火して生きながら焼死したと云う。だが火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない」

ハイ、そうなんです。

信長の遺骸は見つかっておらず、直接の死因=真相は闇の中。

冒頭で触れましたように、一説には阿弥陀寺(京都市)の清玉上人が遺灰を運んだという話もありますが、明智軍がウロついている中で一介の僧にそんなことできるのか?

一応、お寺の記録に残されているのですが、なかなか真偽の程は怪しいかなぁ、と。

ともかく信長さんは本能寺で死んでおります。

その死因は一体何なのか。

切腹なのか、焼死なのか……。

 


こんがり焼けたらファイティングポーズ

いきなりですが言葉の定義からご説明させてください。

焼死とは

「生体が火災などに巻き込まれ、高温、有毒ガス、酸素欠乏などの複合作用によって死に至ること」

を指します。

従って信長が切腹で絶命した後に死んで、火災で焼けてもそれは焼死とは言えません。

武士の切腹を描いた月岡芳年の作(右)/wikipediaより引用

 

刑事ドラマでも殺されてから火災で死んだのか、火災自体で死んだのか――というネタを目にしたことがあるかと思います。

ちなみに、こんがり焼けた死体は「拳闘家姿位(pugilistic attitude)」といってボクサーのファイティングポーズになります。熱によって腕や足を曲げる筋肉が縮んで発生する現象のことです。

ただ、これだけでは残念ながら死因の特定にまでは至りません。

信長さんが火災時に生きていた証拠(生活反応)が判明すれば一発なのですが、これはどこで判断するのか。

参考までに現代医学の観点から例を挙げてみましょう。

「気道粘膜が熱変性しているかどうか」

「気管や食道内に煤があるかどうか」

「血中の一酸化ヘモグロビン(一酸化炭素とくっついたヘモグロビン)はどうなってるか」

「一酸化ヘモグロビンによって血液や臓器はピンク色の変化があるか」

少し専門的な話でごめんなさい。

仁が江戸時代ではなく戦国時代にタイムスリップしていれば、あるいはその死因は判明したかもしれませんね。

こうした前提を踏まえたうえで、信長の死因に迫ってみます。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-織田家
-,

×