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【三法師(織田秀信)】
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織田秀信が領主になると決まった途端、斎藤家(道三の家)や土岐家(道三に下克上された家)の旧臣・縁者や、名のある剣豪などがわらわらと集まってきたそうです。
歳が歳ですから実績はまだ皆無に等しいながら、【信長の嫡孫】であることが多くの人を集めたのでしょう。
それを本人も自覚していたのか、やがて実務を執るようになってからは、祖父の政策のいいとこどり+寛容さで善政を布いていたようです。
特に宗教については寛大で、自らはキリスト教に傾倒しつつも、寺院の保護も積極的に行っていました。この若様、出来杉君。
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文禄の役でも渡海している
武働きも怠りなく、その後の朝鮮の役では前半戦にあたる文禄の役(1592年)で渡海しています。
朝鮮の役では水夫や兵の病死や兵糧不足、慣れない土地での過労や寒さで身分を問わず多くの人が亡くなっていますが、秀信は無事帰ってくることができました。
帰国後は従三位・中納言に昇進。正室も迎えて名実共に大人になります。
※従三位(じゅうさんみ)とか中納言とか「官位」って少しモヤモヤしませんか? よろしければ以下の記事をご参照ください
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モヤッとする位階と官位の仕組み 正一位とか従四位ってどんな意味?
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その後も朝鮮からの使者に立ち会ったり、豊臣秀次のお供をしたり、信長の孫ということを笠に着ることなく、地道・誠実に務めていたようです。
一方、衣服については「派手好きだった」なんて言われているので、祖父・信長と父・信忠のいいところをうまく受け継いでいたのでしょうか。
関ヶ原では西軍につきながら正則に救われる
秀吉の死後は関ヶ原の戦いを予見していた節があり、前年から岐阜城で戦支度をしていたらしき動きが記録されています。
当初は会津征伐に参加するつもりだったらしいのですが、支度が間に合わず遅刻。
その間に石田三成から美濃・尾張をもらうことを条件に西軍につきました。
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石田三成・日本史随一の嫌われ者を再評価~豊臣を支えた41年の生涯
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これにより、美濃の諸勢力も西軍になり、そのために池田輝政・福島正則らと戦うことになります。
ちょうど20歳になった秀信は、自ら出陣して迎え撃つも、野戦であえなく敗北。そして……。
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