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【三法師(織田秀信)】
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岐阜城での籠城戦に持ち込んだ後は、関が原本戦の20日ほど前に開城となりました(岐阜城の戦い)。
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本当は異母弟・秀則と共に切腹するつもりだったようですが、これは信長の乳母兄弟(池田恒興)の息子である輝政の説得で思いとどまったとか。
戦いぶりについては正則からも「さすがは信長様の孫」と賞賛されていたようなので、その名に恥じない采配だったのでしょう。
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正則はさらに「俺の功績をチャラにしてもいいから、秀信を助けてやって欲しい」とまで言っていました。
家康もそれを容れて、一命を助けています。しかし……。
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祖父信長と戦った経緯から高野山では受け入れ拒否
その後の秀信は穏やかに暮らすことはできませんでした。
剃髪し、異心のないことを示すため高野山へ向かったのですが、信長がかつて高野山とも戦ったことがあるため「アイツの孫? フザけんな!」(※イメージです)と言われて、しばらく入山できなかったのです。
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一度は無事山へ入れたものの、周囲の視線からかそれとも他の理由からか、五年後には自ら山を下りて麓で細々と暮らすようになりました。
と、それも束の間、下山からわずか20日程度で秀信は亡くなってしまいます。
この「下山した日」を高野山側では秀信の命日として扱っており、慶長十年(1605年)5月8日となります。
実際に亡くなったのは27日だったと言われており、生存説や「江戸時代に陸奥棚倉1万石で大名に服した」説もあるので、はっきりわかっていません。
高野山側の記録が正しければ、秀信の享年は26。
英雄の孫、そして良き領主には早すぎる死でした。
ハンパじゃないプレッシャーの下で頑張ったほうでは?
織田秀信は、病気になったから下山したとも考えられます。
頭を丸めて山に入ったのですから生活は質素なものだったでしょうし、伝染病が蔓延していたとも思えませんから、もしかすると自害だった可能性もありますね。
本来は、岐阜城開城の際に腹を切るつもりだったわけですし。
秀信については岐阜城開城の件が原因で「無能」だの「遊びほうけていた」だのとけなされることもあるようです。
が、家臣はよくまとまっており、自ら戦場へ出馬もしていますし、そこは「勝敗は時の運」というものでしょう。
そもそも秀信は周囲から「信長の孫なら優れた能力があるに違いない」という目で見られていたことは確実ですから、かなりのプレッシャーもあったはずです。
そういう状態で堕落や明らかな過失をすることなく、きちんと自分の役目を成し遂げたということは、もっと評価されても良いのではないでしょうか。
まぁ、清州会議で
【秀吉が担ぎ上げた子供】
という印象があまりに強すぎるので、なかなか難しいですかね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐 昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
織田秀信/wikipedia