三法師・織田秀信

秀吉の肩に乗せられていた三法師(左)と成長後の姿・織田秀信/国立国会図書館蔵

織田家

三法師こと織田秀信は信長の孫~運命の「清州会議」後はどう生きた?

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
三法師(織田秀信)
をクリックお願いします。

 

岐阜城での籠城戦に持ち込んだ後は、関が原本戦の20日ほど前に開城となりました(岐阜城の戦い)。

東西のスター武将が集った岐阜城の戦いはド派手な関ヶ原前哨戦だ

続きを見る

本当は異母弟・秀則と共に切腹するつもりだったようですが、これは信長の乳母兄弟(池田恒興)の息子である輝政の説得で思いとどまったとか。

戦いぶりについては正則からも「さすがは信長様の孫」と賞賛されていたようなので、その名に恥じない采配だったのでしょう。

福島正則
福島正則は秀吉子飼いの武将なのに~徳川政権で転封改易の悲劇を辿る

続きを見る

正則はさらに「俺の功績をチャラにしてもいいから、秀信を助けてやって欲しい」とまで言っていました。

家康もそれを容れて、一命を助けています。しかし……。

 

祖父信長と戦った経緯から高野山では受け入れ拒否

その後の秀信は穏やかに暮らすことはできませんでした。

剃髪し、異心のないことを示すため高野山へ向かったのですが、信長がかつて高野山とも戦ったことがあるため「アイツの孫? フザけんな!」(※イメージです)と言われて、しばらく入山できなかったのです。

織田信長
史実の織田信長はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?

続きを見る

一度は無事山へ入れたものの、周囲の視線からかそれとも他の理由からか、五年後には自ら山を下りて麓で細々と暮らすようになりました。

と、それも束の間、下山からわずか20日程度で秀信は亡くなってしまいます。

この「下山した日」を高野山側では秀信の命日として扱っており、慶長十年(1605年)5月8日となります。

実際に亡くなったのは27日だったと言われており、生存説や「江戸時代に陸奥棚倉1万石で大名に服した」説もあるので、はっきりわかっていません。

高野山側の記録が正しければ、秀信の享年は26。

英雄の孫、そして良き領主には早すぎる死でした。

 

ハンパじゃないプレッシャーの下で頑張ったほうでは?

織田秀信は、病気になったから下山したとも考えられます。

頭を丸めて山に入ったのですから生活は質素なものだったでしょうし、伝染病が蔓延していたとも思えませんから、もしかすると自害だった可能性もありますね。

本来は、岐阜城開城の際に腹を切るつもりだったわけですし。

秀信については岐阜城開城の件が原因で「無能」だの「遊びほうけていた」だのとけなされることもあるようです。

が、家臣はよくまとまっており、自ら戦場へ出馬もしていますし、そこは「勝敗は時の運」というものでしょう。

そもそも秀信は周囲から「信長の孫なら優れた能力があるに違いない」という目で見られていたことは確実ですから、かなりのプレッシャーもあったはずです。

そういう状態で堕落や明らかな過失をすることなく、きちんと自分の役目を成し遂げたということは、もっと評価されても良いのではないでしょうか。

まぁ、清州会議で

【秀吉が担ぎ上げた子供】

という印象があまりに強すぎるので、なかなか難しいですかね。

あわせて読みたい関連記事

織田信忠
信長の嫡男・織田信忠が生き残れば織田政権は続いた?26年の儚い生涯

続きを見る

織田信長
史実の織田信長はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?

続きを見る

織田信秀
織田信秀(信長の父)は経済も重視した勇将~今川や斎藤と激戦の生涯

続きを見る

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は

続きを見る

堀秀政
信長に寵愛され秀吉に信頼された堀秀政~名人久太郎38年の武将人生

続きを見る

織田信孝
信長の三男・織田信孝が迎えた壮絶な最期がヤバい~秀吉に敗れ怨念の十字腹を

続きを見る

賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦いで秀吉と勝家が正面から激突! 勝敗を決めたのは利家の裏切りか

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐 昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
織田秀信/wikipedia

TOPページへ

 



-織田家
-,

×