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【帰蝶(濃姫)】
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早いうちに離縁された&病死した説
そもそも濃姫に関する記録で、各書物共通の事柄は結婚したときのことしかないので、その後どうしていたかも意見の分かれるところです。
今のところ、大きく分けて三つの説があります。
子供ができないので離縁したとか、あるいは病死したという説です。
しかし、信長が宗教的にお側の女性を増やせないというわけでもないですから、子供ができないからといって正室を実家に帰すというのは考えにくいような気がします。
それに、道三は「ワシの息子(斎藤義龍)より婿殿(信長)のほうが頭イイから、美濃は婿殿に譲るよ!」という遺言を残していたと司馬遼太郎さんが『国盗り物語』で言っていますが、もし濃姫と別れるとなると信長は「美濃の後継者」を名乗りづらくなることに繋がります。
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まあ、この遺言は歴史家からは偽文書と断定されているのですが。
この時代、正室でも亡くなった時期が不明なのは珍しくありませんから、早いうちに病死したというのは否定し切れません。
では、次を見てみましょう。
本能寺で死亡説
本能寺で信長と共に死んだ――というのは小説やゲームなどの創作で多いパターンですね。
画面映えしますし、夫に準じたというロマンもあることからお馴染みのシーンですが、現実味の点からすると可能性は低いでしょう。
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そもそも信長は、豊臣秀吉が「中国地方の攻略に助力を!」という要請に応じ、援軍に行く途中で本能寺に泊まっていたわけですから、正室である濃姫を連れていく理由がありません。
豊臣秀吉が小田原征伐の際やったように、長丁場になるから妻を呼び寄せたというのとは違いますしね。
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もし帰蝶が武道にも通じていて、常に信長の出陣にも付き添っていたのであれば、それこそそういう記録が残っていそうなものです。
武家の女性として嗜みはあったと思いますけども。
長生き説
反対に、江戸時代まで生きたのではないか?という説もあります。
帰蝶と思しき女性がいくつかの記録に出てくるのです。
まず、永禄十二年頃(1569年)例の風変わりな貴族・山科言継の日記『言継卿記』に信長本妻という単語が出てきます。
「彼女は出産したが、男子ではなかった。そのため側室の子供である織田信忠を彼女の養子にして跡継ぎにしたらしい」
そんな記述もあるので、これが本当ならすぐ離縁・病死説は否定され、さらに女の子を産んでいたことになりますね。
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次に、次男・織田信雄の分限帳(家の中での所領配分が書かれた、大名としての家計簿のようなもの)に「安土殿」という女性が出てきます。
正確な時期は不明ながら、本能寺の変後であることは確か。
信長の本拠であった場所の名前がつくとなると、正室である帰蝶の可能性が高いですよね。
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この当時女性にも領地(化粧料)が与えられており、その序列を記した部分の最初のほうに出てくるため、身分の高さも窺えます。
他にも所領の多い女性のうち、何人か素性のハッキリしない人がいるので、そのどれかが帰蝶ではないか?といわれています。
また、本能寺の変の一年後にやはり「安土殿」という女性が信長の一周忌法要を営んだという記録もあります。
この女性は慶長十七年(1612年)に信長の菩提寺・総見院に葬られており、信長本妻と安土殿が両方とも濃姫を指していたとすると、かなりの長生きをしたことになります。
とはいえ、もし帰蝶(濃姫)が早く病死していて、その後、信長が新たに正室を迎えていたとしたら別の女性が「安土殿」と呼ばれていた可能性も高いわけで、これまた断定はできなくなってしまいます。
他にも「母の実家である明智家に返され、斎藤義龍に攻められた際一家揃って自害した」とか「嫁いですぐ殺された」とか「本能寺の変を知り、安土城から急いで逃げた」とかいろいろありますが、考えれば考えるほど頭が混乱しそうですのでこの辺にしておきましょう。
しかし彼女については、一つだけ、断定して良さそうなことがあります。
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