こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【佐久間信盛】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
戦の失敗を信長に叱られ、あろうことか反論す
天正元年(1573年)夏のことです。
かねてから何度も戦を重ねてきた朝倉家と織田家。
朝倉は浅井長政と同盟を結んでおり、織田軍が浅井の本拠地を囲み始めたときに朝倉義景が珍しく自ら戦地へ赴いてきました。
それまではイトコの朝倉景鏡に戦を任せるなどして、義景はほとんど積極性がなく、さすがの景鏡も呆れ果てていたのか、合戦への参加を拒否します。
だからでしょうか。半ば仕方なく近江にやってきた義景は、浅井家の本拠地・小谷城付近に陣を設置するも、織田信長に奇襲を仕掛けられると、密かに撤退の準備を始めてしまうのです。
以降、重要場面のあらましを記しますと……。
織田軍が、いよいよ当主の義景を追い込もうとしたときのこと。
信長が家臣たちに向かって「お前ら、朝倉が越前に戻りそうになったら死ぬ気で追撃しろよ! オレ、なんども言ったからな、わかってんだろうな!(超訳)」と厳命したにも関わらず、油断したのか、家臣たちはスッカリ出遅れてしまう。
結局、先陣を切ったのは信長――。
越前の朝倉攻略に成功し、義景を敗死させる。
合戦が終わった後、怒り心頭の信長は「おまえら何やってたんだ!!!」と家臣たちを叱るのだが、佐久間信盛はこう切り返した。
「信長様、そう怒られましても、我々ほど有能な家臣ってのも、なかなかいないんじゃあーりませんか?(超訳)」
うーん、さすがにこの言葉はまずいですよね……。
いくら重臣とはいえ、自分たちの怠慢で義景の監視を失敗していたのに、それを棚に上げて「自分たちは有能ですから」発言。
誰だって怒りを覚えることでしょう。
とはいっても、この時点では信長にとって信盛の功績のほうが大きいと思われたようで、しばらくは実質的なお咎めは受けていません。
重要な一戦となった天正三年(1573年)【長篠の戦い】にも参加しておりますしね。
しかし、さらにもう二つのやらかしをしてしまいます。
水野信元を追い込んでしまったのです。
難敵・石山本願寺攻めの総指揮官に任命されて
徳川家康の伯父である水野信元。
もともとは今川義元と織田家が争っているときその狭間におり、織田家になびいた武将です。
信元は、家康の母・於大の方の兄でもあります。
その信元に「裏切りの兆候がある」と信長へ報告し、家康の家臣に信元を誅殺させたのが佐久間信盛とされています。
水野信元の領地と城は信盛のものになり、後々火種となりました。
そして信長に追放される決定的要因が、石山本願寺攻略における働きです。
信盛は天正四年(1576年)、石山本願寺攻略の総指揮を任されるのですが、
織田家の中で一・二を争う兵数を用意できたにもかかわらず、力攻めも謀略も仕掛けず、丸四年を無為に過ごしたとして叱責されます。
といっても石山本願寺の攻略は難易度Sクラスです。
鉄砲傭兵集団で信徒の雑賀衆が防御に入っていたとされ、鉄砲の威力が凄まじすぎて城へは近づけない有様。
信長が足を撃たれて怪我をすることもあったほどです(以下にその詳細記事がございます)。
天王寺砦の戦いで信長撃たれる! 雑賀衆の怖さよ~信長公記136・137話
続きを見る
しかも、その間、紀州征伐や松永久秀との戦いにも駆り出されています。
全方位を敵に囲まれている織田家では、石山本願寺だけを相手にすることもできなかったんですね。
ただし、自分の持ち場があって、他の合戦に参加させられるのはなにも佐久間信盛だけでなく、柴田勝家や豊臣秀吉、明智光秀など、織田家の名だたる武将たちは皆、その役目をこなしておりました。
つまり織田家のトッププレイヤーたちは、同時進行で凄まじい功績を積み重ねていたのです。
一方、丸四年という時間を費やして、ほとんど成果を上げられない佐久間信盛。
ついに信長はしびれを切らし、自ら朝廷を通じて本願寺との和睦にこぎつけます。
天正8年(1580年)のことでした。
※続きは【次のページへ】をclick!