左から立花宗茂・高橋紹運・立花道雪/wikipediaより引用

大友家

高橋紹運は「西国無双」立花宗茂の父~岩屋城での散り際凄まじき名将

天正14年(1586年)7月27日は立花宗茂の父である高橋紹運が亡くなった日です。

宗茂と言えば、秀吉から「西の最強武将」と称えられた、現代でも人気の戦国武将。

最強武将の父親なんだから、さぞかし凄いんだろうな!

と、ハードルを上げられても、十分、期待に応えられるのが高橋紹運と言えるでしょう。

あの立花道雪と共に大友家を支えた――最強武将一族の血脈がどれだけ凄まじいか。

その生涯を振り返ってみましょう。

 

大友配下の名門に生まれた高橋紹運

高橋紹運は天文17年(1548年)、豊後国東国東郡の筧城主だった吉弘鑑理の次男として生まれました。

鑑理といえば大友家屈指の名将として知られ、立花道雪・臼杵鑑速とともに【豊後三老】に数えられる実力者。

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紹運を含め、親類には猛将として知られる人物たちが数多くいました。

兄である吉弘鎮信も有望な武将のひとり。

紹運自身も優秀な人物ながら、次男だったため父の跡を継ぐことは叶わず。

普通なら、このまま鎮信の配下として吉弘家を支えるか、あるいは出家していったん俗世を離れるのが通例です。

ところが、幸か不幸か、大友宗麟が目をかけていた家臣・高橋鑑種(あきたね)の裏切りによって運命が大きく変わります。

高橋家は、南北朝時代には足利尊氏に味方して戦功を挙げた高橋光種らが先祖にいる名家でしたが、戦国時代に入ると、当主の高橋長種に嫡子が生まれず、断絶の危機に。

これを惜しんだ家臣たちの嘆願によって、大友宗麟は大友一族の一万田家に生まれた鑑種を高橋家の後継ぎとしました。

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鑑種は勇猛な武将として活躍し、宗麟も彼に目をかけるようになります。

その後、毛利氏の北九州攻めを警戒するべく、鑑種は筑前の宝満城・岩屋城を任されるようになり、この地域の司令官のような立場まで出世しました。

しかし鑑種は、毛利氏のストッパーどころか、毛利氏の誘いを受けて内通。

反大友の急先鋒として謀反を起こしてしまうのです。

 

吉弘家を出て高橋家を任され

なぜ高橋鑑種は大友を裏切り毛利に走ったか?

・実兄の一万田鑑相が政変によって宗麟に討たれた

・一時仕えていた大内義長を宗麟が見殺しにした

・大友氏からの自立を成し遂げようとした

といったように、いくつかの理由が考えられますが、ハッキリとしたことは不明。

ともかく鑑種を可愛がっていた大友宗麟は、裏切りが信じられず愕然としながら、いざ事実と認めるや「可愛さ余って憎さ百倍」とばかりに大軍で攻め込みます。

鑑種は粘り強く戦うも、連携していた毛利軍が撤退すると、もはや降伏しかありません。

九死に一生は得るも、旧領や名跡はことごとく没収された挙句、小倉の地で閉塞を余儀なくされました。

一方、高橋家の家臣であることに誇りをもっていた旧臣たちは、鑑種が迎え入れられた際と同じように、新たな君主を迎えての高橋家再興を願い出ます。

ここで宗麟によって後継ぎに指名されたのが高橋紹運でした。

紹運は吉弘家を出ると、宝満城や岩屋城など、高橋家の支配地域を任されます。

ときに永禄12年(1569年)あるいは元亀元年(1570年)のこととされ、紹運まだ20代前半の出来事でした。

 

天然痘を患った女性を正妻に?

高橋紹運といえば、戦国ファンには、無類の戦上手としてお馴染みの存在。

同時に、最期まで主家を見捨てなかった義理堅さも高く評価されます。

一つ、「義理堅さ」に注目したエピソードを振り返ってみましょう。

まだ紹運が10代後半だったころ、父・吉弘鑑理と父の同僚であった斎藤鎮実の間で「鎮実の妹(娘という説も)を紹運のヨメさんにしよう!」という約束が交わされました。

親同士で交わされた約束ではありましたが、紹運自身も彼女のことを気に入っていたといいます。

ところが、各地で父に従って出陣するうちに婚姻が伸びてしまい、そのうちに彼女は天然痘を患って顔に病気の跡が残ってしまったといいます。

これには鎮実もやむなく約束を断念しようと紹運に婚約破棄を申し入れましたが、彼は「彼女の外見を愛していたわけではなく、心音の優しさに惚れたのだ。内面はいささかも変わっていないのに、なぜ婚約破棄などできようか」と一蹴。

予定通り二人は結婚し、愛し合い6人の子をもうけたといいます。

その長男が、西の戦国最強武将として知られる立花宗茂。

「紹運サン、惚れる……」と言いたくなるエピソードですが、史実かどうかで考えるとかなり怪しい。

「美貌を失ってしまった女性と結婚した義理堅い武将」という逸話は他の武将にも残されており、例えば明智光秀と煕子の間でも確認できますね。

天然痘がまだ身近だったころは、この手の逸話は定番だったのでしょう。

事実かどうかは置いといて、この逸話が生まれたであろう江戸時代から、紹運の評価がそう変わらないことは推測できそうです。

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