左から立花宗茂・高橋紹運・立花道雪/wikipediaより引用

大友家

高橋紹運は「西国無双」立花宗茂の父~岩屋城での散り際凄まじき名将

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高橋紹運
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筑後遠征も失敗しついに追い込まれる

天正12年(1584年)、大友家に転機が訪れます。

龍造寺と島津・有馬連合軍が激突した【沖田畷の戦い】で、龍造寺が惨敗を喫し、当主の隆信以下、多数の将兵が討ち死にしたのです。

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この一件によって龍造寺は急速に衰え、九州は島津と大友に二分される形になりました。

大友はさっそく龍造寺の勢力下にあった筑後への遠征を敢行。

立花道雪高橋紹運にも出陣命令がかかり、敵を蹴散らしながら目標拠点である猫尾城を目指します。

猫尾城をめぐる戦いは激戦となりましたが、なんとか城を落とすことに成功しました。

続いて山下城に入る蒲池鎮運が降伏を表明し、彼らは筑後市の坂東寺を拠点に柳川方面を攻めようと兵を出します。

しかし、柳川城は天然の要害。

なかなか攻め落とすまでには至りません。

島津軍も迫ってくる……。

そんなさなか、大友軍は悲劇に見舞われます。

かねてより没落の一途をたどる大友家を支え続けた道雪が亡くなってしまったのです。

仕方なく紹運は、筑後からの撤退を表明しましたが、その隙をついて秋月種実・筑紫広門の両者は紹運の次男・高橋統増が守る宝満城を占拠しました。

すると、面白いことに、広門が和睦を提案してきます。

長年の仇敵だった相手だけに簡単には信用はできない。されど、島津のプレッシャーも日増しに高まっている状況。

紹運は長年の因縁にケリをつけ、広門との和睦を受諾するのですが、事態はそう簡単には打開できませんでした。

いよいよ島津軍が迫ってきたのです。

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紹運らのいる筑前国に攻め込んできたのは、彼らではなく、島津忠長や伊集院忠棟でしたが、総勢2万とも5万ともされる大軍であり、和睦を結んだばかりの筑紫広門は勝尾城で降伏に追い込まれます(島津の捕虜に)。

そして島津軍は、紹運の支配下にある岩屋城・宝満城へ攻め込んできました。

数万の島津軍に対し、宝満・岩屋の両城にいた兵力はわずか数千程度。

まさしく絶体絶命の危機に紹運はいかなる手を打ったのか。

 


死力を尽くして島津の進撃を食い止め

「どうせなら岩屋城より守りやすい宝満城に移りましょう」

島津軍の大軍到来に対し、高橋紹運の家臣たちは宝満城での防御を望みました。

しかし紹運は決意を新たにします。

「どうせ死ぬのなら、長年過ごしたこの岩屋の地を望みたい。

私は最期までこの城にこもり、秀吉の援軍を信じる。

もしこの考えに賛同できない者は、遠慮なくこの場から去ってほしい」

紹運が言うように、大友勢の頼みの綱は九州へ介入する構えをみせていた羽柴秀吉でした。

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援軍が来るのか来ないのか。

大友家の現有戦力では到底勝ち目がありません。

一方、島津側もそれは重々承知しており、秀吉からの援軍到着前にすべての拠点を落とし切る必要がありました。

兵力差は顕著で、立場も違えど、共に困難な使命を背負った背水の戦い。

紹運らの軍勢と、宗茂の立花山城からやってきたわずかな援軍が岩屋に入ると、島津がこれを徹底包囲します。

彼らの目的はあくまで早期終結。

城を囲みながら降伏勧告を行ってきましたが、紹運は即座に拒み、命を賭した防衛戦が幕を開けます。

島津の大軍は一斉に弓や鉄砲を放ち、大軍でもって紹運を威圧しにかかりました。

しかし、全く動揺すらしない高橋軍には、敵である島津勢も舌を巻くほど。

仕方なく数に任せて全力で城を落としにかかりますが、紹運のもとで練度も士気も高かった将兵たちは逆に何度も痛手を負わせるのです。

島津軍はいったん兵を引き下げ、再び降伏勧告を行います。

それでも紹運は頑なに拒否。

最後の一兵まで戦う!そんな姿勢は戦国ファンの間でもお馴染みですが、昨今の研究では「城を明け渡さないなら降伏してもOK」で講和に前向きだったという記録も出てきています。

結果、どうなったか?

 

私欲無く古今稀なる名将

岩屋城では両軍による死力を尽くした戦いが継続。

紹運は最期まで降伏することなく戦いました。

伝わるところによれば城内は両軍の死体と血で染められていたとされ、実に10時間以上総力戦が繰り広げられたとも伝わります。

ただ、やはり数で劣り、ついには最期を悟るしかありません。

敵の手で殺害されるなんてことはなく、最期は自害によってこの世を去ったとされます。

結局、岩屋城と宝満城は陥落しましたが、島津軍に与えたダメージは絶大なものだったとされます。

島津軍はすっかり勢いを奪われ、続く息子の立花宗茂にも立花山城で粘られたのです。

結果、島津軍の悲願が果たされる前に秀吉軍が九州に上陸し、大友家は九死に一生を得たのでした。

高橋紹運の評価は非常に高く、その武勇を称える記録が数多く残されています。

『黒田家譜』
「かくれなき猛将」

『高橋記』
「文武に通じ徳智謀達し、諸人に情深く忠賞も時宜に応じ私欲無く古今稀なる名将」

『筑前国続風土記』
「平生情深かりし故 且は其の忠義に感化せし故一人も節義うしなわざるべし」

また、真偽の程は不明ながら、豊臣秀吉が次のようにその死を惜しんだエピソードも有名です。

「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西にいたとは思わなかった。紹運こそこの乱世に咲いた華である」

彼の遺志を継ぎ、「西国無双」と称された立花宗茂は、柳川藩主として江戸時代まで家名を存続させ、結果として立花家は現代まで途絶えることなく生き続けています。

紹運の壮絶な最期は、立花家の命運を大きく変えたと言えるでしょう。


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文:とーじん

【参考文献】
『朝日日本歴史人物事典』
外山幹夫『大友宗麟』(→amazon
芥川龍男『大友宗麟のすべて』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
吉永正春『筑前戦国史』(→amazon
山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』(→amazon

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