臼杵鑑速

現在は臼杵公園となっている臼杵城跡

大友家

道雪が死を惜しんだ豊後三老の臼杵鑑速~大友を躍進させた手腕とは?

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臼杵鑑速
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敵は、毛利氏の後援を受けており、非常に苦しい戦運びを強いられました。

しかし、最終的に立花城・宝満城ともに和睦という形で取り戻しています。

ちなみに、交渉の結果、高橋鑑種は小倉へ移され、宝満城・岩屋城を任されたのが鑑種の養子となった高橋紹運(じょううん)です。

西の戦国最強武将として知られる立花宗茂の父ですね。

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その後は、三老として対龍造寺の戦にたびたび出陣。

攻めあぐねては和睦し、次に対峙した際には力を強めてくる龍造寺隆信としたたかさに手を焼き、ついに彼らを打倒することはできませんでした。

しかし「三老」の立場で大友の主要な戦を重ね、多くの功績を残したことから、彼の活躍は、

【才徳勇猛ノ良将也】

として後世に語り継がれています。

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戦だけでなく、外交面でも活躍

臼杵鑑速の魅力は、その功績が軍事以外にも渡ることでしょう。

鑑速には、兄譲りの外交的な活躍もありました。

例えば、幕府と大友家の交渉で重要な役割を果たし、主君・大友宗麟守護職や九州探題の就任に貢献。

他大名や国衆を相手にしても力を発揮し、抗争を繰り広げていた毛利氏や宗麟に従おうとしない国衆をコントロールしていました。

その働き、まさに大友家の「外交官」と呼ぶにふさわしい活躍です。

さらには大友家が積極的に推進していた貿易についても、鑑速は深く関わっています。

国内では博多商人たちと早くから交流を持ち、豪商として知られた神屋宗湛とは祖父の代から付き合いがありました。

神屋らを通じて、鑑速は国内や海外貿易でも成果を挙げており、軍事・外交だけでなく経済面からも同家を支えていたことがわかります。

では宗教面ではどうか?

大友宗麟は「キリシタン大名」として有名ですが、鑑速自身がキリスト教に傾倒していた様子は確認できません。

ただし、臼杵の地には南蛮船や宣教師がしばしば足を運んでおり、ここに住む外国人も少なくなかったようです。

永禄10年(1567年)には臼杵城下に会堂が建てられるなど、鑑速の拠点近くにもキリシタンの存在を確認することができます。

宗麟も臼杵の地へと移って来ていたため、その影響だと考えられますが、おそらく日常に宣教師らとは交流があったでしょう。

彼自身が洗礼を受けないまでも、キリスト教に好意的だったのか。

はたまた内心はどうあれ主君の信仰に黙って従っていたのか。

本音のところは不明ながら、同時代の日本人ではトップクラスの海外通だったのは間違いないでしょう。

 

その死が大友衰退を招いた?

多岐にわたる活躍で大友家を支えていた臼杵鑑速。

その存在は想像以上に大きいものだったようです。

前述の通り、鑑速は天正3年5月8日(1575年6月16日)に亡くなったとされますが、その後、大友家は奈落の底へと凋落してしまいます。

最大の契機となったのが天正6年(1578年)に勃発した【耳川の戦い】。

九州南部を制覇し勢いに乗る島津家とぶつかり、完膚なきまでの敗戦を喫してしまうのです。

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この大敗により多くの重臣を失った大友家は、一気に勢力を衰退させるばかりか、大友宗麟のキリスト教傾倒により家臣同士の不和や大友義統との親子対立までもが表面化。

衰退を目の当たりにした三老の立花道雪は、鑑速の死を惜しみ、こう語るほどでした。

宗歓※1・鑑速死去して以降、貴国の御様躰、無道のみ召拵らる

宗歓と鑑速が亡くなって以降、豊後の様子は道理から外れているとしか考えられない

※1 吉岡宗歓:鑑速と同じく政治の中枢を担った重臣

軍事だけでなく、外交や内政まで深く関わっていた鑑速だけに、その死が大友家衰退の一因という道雪の感慨も大袈裟な表現ではなかったのでしょう。

大友家が、いかに三老を中心にしてまとまっていたか……。

衰退していく大友家において、臼杵鑑速の跡を継いだのは嫡男の臼杵統景という人物だったようです。

しかし、統景は島津氏との抗争で、弱冠18歳の若さでこの世を去ってしまい、臼杵本家は断絶してしまいます。

その後、豊臣秀吉の助力もあって島津氏の脅威から九死に一生を得た大友氏ですが、息子の大友義統は朝鮮の地における戦ぶりを咎められて改易処分。

大名としての大友氏は滅び去ってしまいます。

そのせいでしょうか。後世における臼杵鑑速の名声は、決してその活躍に見合うほどのものとは思えません。

「臼杵市」という名称が残ったことが、せめてもの救いでしょうか。

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文:とーじん

【参考文献】
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon
外山幹夫『大友宗麟(人物叢書)』(→amazon
竹本弘文『大友宗麟』(→link
三池純正『九州戦国史と立花宗茂』(→amazon

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