諸家

戦国大名はどうやって戦国大名となった? 守護や国人・十八武家の成り立ち

上杉氏

後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王が鎌倉に下向して六代将軍に就任したとき、随行した藤原重房という公家が丹波国何鹿郡上杉荘(現・京都府綾部市上杉町)を領し、上杉氏を名乗り始めます。

「上杉氏」
というと、いかにも関東管領や謙信のイメージですが、元は公家だったんですね。

ついでにいうと上杉重房は藤原北家の流れを汲んでおり、紫式部日蓮、日野氏などとも(ものすごく)遠い親戚となります。
「一応血が繋がっている」くらいの遠さです。

さらに遡ると伊達氏とも親戚。
後世の関係を見ると、因果というか因縁というか……。

重房の娘が足利頼氏(尊氏のひいじーちゃん)に、重房の孫娘・清子は足利貞氏(尊氏のトーチャン)に嫁ぎ、名門とみなされていきます。

尊氏の次男・基氏が若年で鎌倉公方になったときには、その補佐の一員として上杉氏四代(山内家初代)の上杉憲顕が選ばれました。
当初は斯波氏や畠山氏などもいたのですが、次第に上杉氏が関東管領の座を独占していきます。

しかし、彼等もまた色々な騒動を起こしてしまいます。
二代・頼重の息子たちから山内家(こっちが本家)と扇谷家、そしてその後さらに犬懸家という系統に枝分かれし、また鎌倉公方との関係によって、関東における戦乱の中心となるのです。

その辺は
【永享の】
享徳の乱
の記事をご覧ください。

享徳の乱の終盤あたりから山内家と扇谷家が仲違いし、家中での争いが勃発。
このあたりの時代になると、全国アチコチで一族争いが頻発してますね。

天文十五年(1546年)の河越夜戦では、扇谷家が北条氏康に滅ぼされたため、上杉氏の血筋は一応まとまりましたが……何とも嫌な展開。
その間に台頭してきた後北条氏に、関東のほとんどを奪われてしまいます。

扇谷上杉家は戦国時代に分家筋の長尾氏から景虎(上杉謙信)を迎えており、ここで血筋が多少変わります。

上杉謙信/wikipediaより引用

謙信自身は妻帯せず子供を持ちませんでした。
跡を継いだ上杉景勝は謙信の姉の子なので、長尾氏の系統であることは変わりません。

景勝が関ヶ原で敗北して以降は「米沢上杉氏」と呼ぶこともあります。
ここも現代まで続いている家の一つですね。

 

尼子氏

宇多源氏の血を引く家の一つです。
京極氏の四代目・佐々木(京極)道誉の孫である高久が、近江国甲良荘尼子郷(現・滋賀県甲良町)に住んだため尼子氏を名乗りはじめました。

高久の次男で尼子氏としては二代目の持久が、京極氏の出雲守護代となり、現地に定着。
持久の子・三代清定が、応仁の乱の時期に、領内の国人を押さえて勢力を強めていきました。

しかし、四代・尼子経久が跳ね過ぎた。

尼子経久/wikipediaより引用

経久は、国人の支持をアテにしすぎて幕府の命令を無視。
主人・京極政経の寺社領を奪うわ、税金徴収を拒否するわで、幕府や京極氏はもちろん、国人たちからも反発を受け、守護代をクビになってしまうのです。

ただ、兵力まで奪われたわけではなさそうなので、そんな仕打ち、おそらくや屁の河童だったでしょう。
その後、京極氏でお家騒動が始まり、京極政経が落ち延びてきたときは快く迎え入れており、両者の関係修復を感じさせる展開となっています。

山陰地方の大部分を手に収めたのも経久の代でした。

経久の長男・政久が早くに亡くなったため、政久の長男・晴久が五代目の当主に就任。
晴久は山陽地方にも進出したのですが、大内氏や毛利氏との三すくみ状態になり、すぐには決着がつきませんでした。

そして大内氏を片付けた後、毛利元就と戦う中で晴久が急死し、跡を継いだ次男・義久が毛利軍へ降伏。
大名としては滅亡しましたが、その後は毛利氏の客分となり、一族もそれぞれ長州藩や水戸藩などに仕えて生き延びています。

「滅亡」と「全滅」は違う、ということがよくわかりますね。

 

朝倉氏

第九代開化天皇の孫・狭穂彦王(さほひこのみこ)、あるいは第三十六代孝徳天皇の孫・表米親王(うわよねしんのう)に始まる日下部氏の血を引くとされています。

日下部氏は平安時代から武士団を形成し、但馬に勢力圏を築いていました。
戦国大名として有名な系統朝倉氏の祖先は、但馬から越前に移り住んだ系統です。

朝倉氏の遺跡として知られる一乗谷

足利尊氏鎌倉幕府打倒の兵を挙げたとき、当時の当主・朝倉広景が源氏の血を引く斯波高経の下で戦うようになってから、歴史の大舞台に登場。
広景は新田義貞討伐で戦功を挙げ、その恩賞として黒丸城と斯波氏の家臣として越前に定着しました。

ちなみに、広景は正平七年=観応三年(1352年)に98歳という超長寿で亡くなっています。
公家だと80~90歳くらいまで生きた人はたまにいるのですが、この時代の武士ではかなり珍しい。江戸時代の武士ですら意外と短命だったりしますし。

話を戻しましょう。
広景の息子で朝倉氏二代の高景は、一時南朝方についていたものの、最終的には北朝方となって落ち着きました。

次に大きく動くのは五代・朝倉教景の代です。
上記の通り、朝倉氏の地元は当初から越前だったのですが、幕府の命令で関東の戦乱である【永享の乱】や【結城合戦】に出兵させられています。割とひどい話ですね。

応仁の乱では、主筋の斯波義廉が西軍だったため、ときの朝倉氏当主・朝倉孝景(敏景)も西軍につきました。

朝倉孝景/wikipediaより引用

緒戦で戦功を挙げると、文明三年(1471年)に東軍から
「こっちに味方してくれれば、キミを越前の守護にしてあげるよ^^」(超訳)
と言われて寝返り。

【孝景の裏切りによって東軍が大きく有利になり、応仁の乱が収束に向かった】という見方もあるようです。

同時に、朝倉孝景は越前一国を実効支配するべく戦い、公家や寺社領まで横領したことから「天下一の極悪人」とまでいわれています。そりゃそうだ。

完全に越前を掌握したのは、孝景の子の八代・朝倉氏景です。
旧主・斯波義寛は当然「ふざけんな国返せ」(超訳)とクレームをつけたのですが、氏景は斯波氏より足利本家に近い家を担ぎ上げて名目を作り上げ、ゴネまくりました。

義寛も幕府もこれを跳ね返す策が思いつかず、そのままナァナァとなり朝倉氏の越前支配が確立しました。

九代・朝倉貞景の代には一族内の内紛や、若年での相続などによるトラブルもありつつ、名将・朝倉宗滴などの力によって家と領地を保ちます。

宗滴さんはマジでカッコイイです。

朝倉宗滴は戦国越前のチート武将!存在感ありすぎて朝倉家滅亡に繋がる?

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十代・朝倉孝景(七代・孝景と同名です)の頃には国内は安定し、また孝景自身が文治的なタイプだったことにより、多くの公家を領内に招くなどしました。

その安定性が買われたのか。
十三代将軍・足利義輝が暗殺されると、弟・足利義昭が朝倉氏の下へ落ち延びてきています。

当時の当主である十一代・朝倉義景義昭を庇護し、上洛の名目にしようと一応は考えていたようです。しかし……。

朝倉義景/wikipediaより引用

早く上洛して実権を取り戻したい義昭と、他の狙いがある義景とは考え方が合わず、義昭は細川藤孝(幽斎)らの勧めで織田氏のもとへ。

少しだけ義景をフォローしておくと、同時期に幼い嫡男・阿君丸が亡くなり、政務にもヤル気を失っていたため、いくら将軍様とはいえ兵を動かす気力が湧いてこないのも仕方ないかもしれません。
阿君丸が亡くなって二ヶ月後には若狭に手を出していますが、その後から内政へのやる気もなくしていますし。

そして、信長が義昭を擁してアッサリと上洛。
朝倉氏は完全に大義名分を失いました。

信長から「もう将軍様が京に戻ったんだから、(同じくらい力がある俺にも)従うように」という知らせが来ても、義景は腰を上げません。
結果、織田氏に付け入るスキを与えてしまいます。

義景としては、これにより織田氏と浅井氏の同盟が破棄され、浅井氏が自分に味方して挟撃できるから問題ないと考えていたようです。

その結果はご存知のように、真逆となるんですけどね。
朝倉氏も浅井氏も信長に本拠を攻められ、当主は自害、戦国大名としては滅びてしまいました。

遠縁といわれる朝倉在重の系統から、江戸幕府の旗本として存続した家がありますが、これは生き残ったといっていいのかどうかビミョーなところですね。

 

三好氏

先祖は鎌倉時代の小笠原長清という人物です。
清和源氏の血を引いており、その父である加賀美遠光の所領のひとつ・甲斐国小笠原を相続したため小笠原氏を名乗りました。

後に有職故実の「小笠原流」で有名になる、格式高い家です。

長清の孫の代以降、小笠原氏はかなり複雑に枝分かれしていて、三好氏の祖となった三好義長もその一人です。
彼が阿波国三好郡芝生(しぼう)(現・徳島県三好郡三野町)に住んだことから三好氏を名乗るようになったとされています。

南北朝時代のことなので、室町・戦国時代当時の感覚としては、比較的新しい家だったのでしょう。

三好氏は当初南朝方についていました。
そして義長の代までに細川頼之(室町幕府二代管領・足利義満の忠臣)に降ったので、細川氏との繋がりが深くなっていきます。

義長の子・長之は三好郡、美馬郡、麻植郡(いずれも阿波)の守護代を任されたこともありました。
そのため、応仁の乱でも細川勝元(東軍)についています。

応仁の乱が終わった頃は、三好長之の子・三好之長の代になっていました。
どうでもいい話ですが、もうちょっと区別しやすい名前にしてほしいものですね(´・ω・`)

細川氏の内紛については、永正四年(1507年)に(細川政元を暗殺して家督をついだ)澄元に味方しています。

ところが、明応の政変で京都から追い出された足利義稙と、それを担ぐ大内義興が兵を挙げたことに始まる戦いで、之長は最終的に捕らえられて斬罪になってしまうのです。

之長の長子・長秀や、長秀の長子・元長も。
京都や細川氏の内紛絡みの戦と一向一揆に敗れて自害に追い込まれます。

その中で、元長の長子・三好長慶が幼少だったため戦に参加せず、母と共に阿波へ戻り、難を逃れました。
もしも長慶が帰っていなかったら、三好氏の命運もその後の歴史も大分変わっていたでしょう。

阿波がこの一連の戦に巻き込まれなかったためか。
長慶は比較的家臣に恵まれていたようで、元服前に一向一揆と細川晴元の間に入って和睦を成立させています。

その直後に元服し、10代前半のうちから活躍して頭角を現し、一時は畿内・四国八カ国を支配して三好全盛期を築き上げます。

三好長慶/wikipediaより引用

しかし、ほどなくして運命は激変。
唯一の息子・義興を早くに亡くし、弟・十河一存の子である三好義継を養子に迎えてからは、定番のトラブルモードへ。

義継が養子に来た頃には、既に親戚の三好三人衆や松永久秀らが実権を握り、また織田信長が台頭していたため、いかんともし難い状況でした。

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天正元年(1573年)、織田家の重臣・佐久間信盛に攻められ、義継は自害して果てます。

 

伊達氏

元の出身は常陸国伊佐郡、あるいは下野国中村荘だといわれています。
ここは藤原北家の荘園でした。

直接の祖先は、藤原北家魚名流・中村光隆とされています。
光隆の妻が源義朝のきょうだいだったため、源氏との結びつきができたようです。

伊達氏の初代となった伊達朝宗(光隆の息子)は、その縁から鎌倉幕府の御家人となり、奥州合戦(奥州藤原氏征伐)に参加しました。

この戦いで戦功を挙げ、陸奥国伊達郡(現・福島県北東部)を与えられたため「伊達氏」を名乗るようになります。

伊達朝宗/wikipediaより引用

「藤原北家の流れを汲むというのは、あくまで伊達氏の自称」という説もありますね。

十七代・伊達政宗(独眼龍のほう)が小さい頃、祖父・伊達晴宗の前で和歌を披露したことがあるなど、和歌や文化を重視する家風であり、たとえ藤原北家でなかったとしても、それなりに教養のある家が元になっているのは間違いありません。

伊達氏は陸奥の他に下野・常陸・出雲・但馬・伊勢・駿河・備中・上野・出羽・越後など、各地の地頭職を得ていました。

この時期に枝分かれした一族も多く、その中から江戸時代に旗本になった系統もあります。

南北朝時代の当主である七代・伊達行朝(ゆきとも)は南朝方につきましたが、その息子の八代・伊達宗遠は北朝に降伏。
領地拡大を目指して周辺の長井氏を攻め滅ぼしています。

宗遠の子である九代・伊達政宗のときは、三代めの鎌倉公方・足利満兼や会津の蘆名満盛と領地を巡って戦いました。

伊達政宗(大膳大夫)/wikipediaより引用

九代・政宗は亡くなる三年前まで鎌倉府と三回も戦っていて、結果、伊達氏の実効支配地域が広がったため「中興の祖」とされています。

お笑いコンビ・サンドウィッチマンの伊達さんが、こちらの子孫だということはNHK『ファミリーヒストリー』でも取り上げられておりましたね。

サンドウィッチマン伊達さんの先祖は政宗?ファミリーヒストリーで判明したこと

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著名なほうの政宗(十七代)は、そもそも、この中興の祖にあやかって名付けられました。
というか、彼等のやってることを見ると、九代も十七代もあんまり変わりませんね。十七代が九代を意識して行動をなぞったのか、それとも性格的に似ていたのか……両方でしょうか。

室町時代の奥羽は鎌倉府の管轄です。
時代が進んで斯波氏が奥州・羽州探題を世襲するようになると、伊達氏はその配下という立ち位置になりました。

しかし、享徳の乱などによって幕府と鎌倉府の関係が悪化すると、伊達氏は幕府に接近し、幕府軍の一員として動くようになります。

永享十年(1438年)永享の乱では、幕府から鎌倉公方の討伐命令を受けたこともありました。

当時の当主は十一代・伊達持宗です。
生涯に二度上洛し、黄金を献上したり、将軍から偏を賜るなどして、伊達氏と足利将軍家との結びつきを強めた人物です。
以降は五代に渡って、伊達氏当主が元服時に将軍から一字もらうのが慣例となりました。

応仁の乱が終わった後の文明十五年(1483年)、十二代・伊達成宗が上洛し、足利義政・日野富子夫妻に砂金・太刀・馬などを献上しています。
元が(おそらく)公家の末裔だからなのか。
地元での結びつきよりも、中央との繋がりを意識した「遠交近攻」を重視した家柄のようですね。

その甲斐あってか、十四代・伊達稙宗が陸奥守護の座を幕府に望むと、聞き届けられてそのとおり補任を受けています。
また、本来は奥州探題を世襲してきた大崎氏が受けるはずの「左京大夫」の官位も授かりました。

この二つは、幕府が「これから奥州のことは伊達氏がまとめておk」と認めたも同然です。大義名分を得た稙宗は、積極的に大崎市や最上氏に介入し、勢力を大きく広げました。
また、自分の娘を周辺の武家に押し付けて姻戚関係を結んでいます。

……が、ワンマンすぎて家臣や息子・晴宗から大反発をくらい、家中どころか奥州を真っ二つに割る「天文の乱」を招きました。
これも以前の記事がありますので、気になる方はそちらで。

伊達稙宗(政宗の曾祖父)がカオス過ぎ!天文の乱を機に東北も戦国大混乱へ

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このせいで、伊達氏はせっかく広がった勢力圏の大部分を失い、家督を継いだ十五代・伊達晴宗とさらにその息子である十六代・伊達輝宗は、領土奪還のための戦いに明け暮れることになります。

稙宗の婚姻政策によって奥州のほとんどが多少なりとも親戚になっていたため、「雪解けから初雪までダラダラ戦っては撤兵」みたいな状態が長く続き、一向に終焉が見えませんでした。

それを断ち切ろうとしたのが十七代・政宗です(独眼龍・大河ドラマで有名なほう)。
幾多の危機を迎えながら、正室・愛姫の実家(田村氏)以外のほぼ全てにケンカを売っては勝ち、伊達氏史上最大の領土を獲得しました。

しかし、時すでに遅し。

上方では既に豊臣秀吉が関白になっており、惣無事令(秀吉が討伐令を出してない戦は全て私闘なので処罰する)という法律が出されます。
政宗は当初これをガン無視しようとし、さらに策動を続けようとしたのですが、結局バレて減封&国替えされ、生地・米沢から岩出山(現・宮城県大崎市)に行かざるを得なくなりました。

政宗は秀吉死後、徳川家康に接近し、関が原の戦いにおける地方戦のひとつ・慶長出羽合戦でも家康方として、上杉氏と戦いました。
その恩賞として仙台62万石を得ています。

死ぬまで天下奪取を諦めていなかったような話もありますが、息子・伊達忠宗が温厚すぎたせいか、結局実行には移さずに終わりました。

余談ですが、「伊達」は元々「だて」という読みではなかったとされています。

伊達氏の由来である陸奥国伊達郡の「伊達」という地名は、古い時代には「いたて」「いたち」と呼ばれており、十七代政宗も「いだて」と名乗っていたそうです。
慶長遣欧使節で支倉常長に持たせたローマ教皇宛ての書簡でも「Idate」と書かれています。

しかし、山科教言や万里小路時房など、南北朝時代あたりの公家が日記中で伊達氏のことを「たて」=「だて」と記しているため、上方もしくは宮中ではこちらの読み方が定着していたのかもしれません。

そのためか、江戸時代には「いだて」「だて」が混在。上方の読み方が主流になった時期は定かではありません。
明治維新あたりが一番タイミングとして有り得そうな気がしますが、どうでしょうね。

伊達氏も現代まで続いている家なので、自分で音頭取りをしたなら記録がありそうなものですが。
見落としてるだけだったらスミマセン。

 

浅井氏

元は近江国浅井郡の豪族・浅井氏でした。
読み方は「あさい」ではなく「あざい」と濁ります。

近江の豪族には公家の庶子が婿入りすることが多かったといわれており、浅井氏も藤原北家閑院流・正親町三条家(嵯峨家)の支族から婿入りした人がいたところから始まると考えられています。

身分としては、近江守護で北近江を領有していた京極氏の譜代家臣で、小谷城が本拠。
浅井氏四代・浅井亮政(あざいすけまさ)の時代に京極氏でお家騒動が発生し、浅見氏を中心とした国人衆主導の政治が始まります。

今度は浅井じゃなくて浅見。ややこしいですね。

その浅見氏を浅井亮政が追放して京極氏を傀儡化、京極氏の家臣を取り込んで戦国大名化したというのが通説です。

ほどなくして元主家の兄弟分ともいえる南近江の六角氏と対立して、助力を得るために越前の朝倉氏と同盟を結びました。

亮政の子・浅井久政の代には、京極氏の再興ならびに六角氏や斎藤氏の台頭があり、浅井氏はより難しい立場へ追い込まれていきます。
そこで大切になったのが、朝倉氏との同盟関係。

浅井久政/wikipediaより引用

特に六角氏からの圧迫は強く、久政の息子・新九郎は無理やり六角家臣の娘を押し付けられたり、当時の六角氏当主・義賢の「賢」をとって「賢政」と名乗らされたりしています。
面子が命同然だったこの時代、これは凄まじい侮辱です。

賢政は六角氏の影響から脱出すべく、妻を送り返して決戦を挑み、大勝利を収めました。
更には、この勢いに乗って、ゴネる久政を強制的に隠居させ、名を「長政」と改めます。

信長の弟として有名な浅井長政の誕生です。

浅井長政/wikipediaより引用

長政は、当時、急速に勢力を強めてきた織田信長と同盟を結び、その妹・お市を妻に迎えました。
浅井氏は朝倉氏と織田氏、それぞれとの同盟によって背後の憂いを断てた……はずでしたが、困ったことに織田氏と朝倉氏の関係が悪化します。

この辺の状況をものすごく雑に表現してみます。

浅井氏は、朝倉氏と織田氏のことを「友達の友達だから全員友達」と思っていた。
しかし、織田氏は他の二家について「友達の友達って他人じゃね? だから攻めてもおk」と考えていた。

そんな感じですから、当然、間に挟まれた長政以下、浅井家中は大混乱。

久政や老臣たちが朝倉氏との同盟関係を強調し、結局、長政は、その路線を取らざるを得ませんでした。
トーチャンたちの反対を押し切って織田氏と同盟を結んだのは長政なので、ここで「まだ織田を信じる」とは言えなかったのです。

こうして長政は織田氏との同盟を破棄。
突如裏切って【金ヶ崎の戦い】の追撃戦に参加したり、朝倉氏と共に【姉川の戦い】で織田氏と戦いました。

その後は本願寺や足利義昭の主導で織田包囲網に参加。
しかし、武田信玄の病没などで一角が崩れると、信長は本拠地・小谷城へ侵攻し、ついに浅井長政・浅井久政親子は自害して果てるのです。

戦国大名としての浅井氏、ここに滅亡。
されど女系での血筋は残り続けます。

長政と信長の妹・お市の方の間に生まれた、いわゆる「浅井三姉妹」の末妹・お江(お江与)を通じて徳川氏に繋がるからです。
他に、長政の祖父・久政の妹である鶴千代(海津殿)の子孫が続きました。

 

毛利氏

先祖は、源頼朝の側近・大江広元と伝わる。
広元の四男・季光(すえみつ)が、当時の本拠地だった相模国毛利荘(現・神奈川県厚木市)の地名を取って「毛利」と名乗ったのが同家の始まりでした。

毛利季光は承久の乱で戦功を挙げ、鎌倉幕府の評定衆となった重臣中の重臣。
ときの執権・北条時頼(時宗のトーチャン)の舅でもありました。

しかし、季光の妻が同じく鎌倉幕府の重臣・三浦氏の出身だったことで事態は一変します。
他の重臣を滅ぼしたい北条氏と、それに抵抗しようとする三浦氏の間で武力衝突が起き、宝治合戦になってしまったのです。

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毛利季光は三浦氏方についたのですが、もともと武力解決には消極的だった三浦泰村が戦意を失くし、源頼朝の法華堂にて一族で腹を切ることに決めました。
出家していた季光は念仏を唱える役を務め、同じく三浦氏についていた息子たちと共に腹を切っています。

しかし、このときたまたま季光の四男・経光が越後国佐橋荘(現・新潟県柏崎市)に行っていたために、一族全滅は回避。
「毛利」の由来である相模国毛利荘は取り上げられてしまったものの、越後や安芸の領地は許されています。

安芸を相続したのが、経光の四男・毛利時親でした。
彼は鎌倉時代末期の人で六波羅評定衆を務め、途中から足利尊氏(北朝)について生き延びます。

建武の新政では他の武士と同様、安芸の所領を奪われてしまいましたが、力ずくで奪還し、建武三年(1336年)七月に現地へ向かいました。
南朝方についていた一族も国元に迎え、ここからが今日イメージする毛利氏の始まりとなります。

毛利氏は代々多産な家系で、そのたびに分家したり領地を分割してます。

その割には内紛が少ないのが特徴。
大名家で「ほとんどの当主に子供がいる」というのは、実は結構珍しい話ですね。江戸時代以降は生活環境の変化などによって、また変わってきますが。

しかし、さすがの毛利氏も、応仁の乱とそれ以降の混乱期では身の振り方に困りました。
特に細川氏・大内氏・尼子氏がそれぞれ勢力を強めてからは、ときの当主・毛利弘元は大いに悩みます。

迷った末、弘元はまだ年齢一ケタの長男・毛利興元に家督を譲ることで解決しようとしました。
その興元も、若い頃からの苦労と酒が原因で早世。一時は、興元の遺児・幸松丸が当主となり、興元の弟である毛利元就が後見する形を取りました。

しかし、幸松丸もまたほどなくして世を去ったため、押し出されるようにして毛利元就が当主に就任します。

毛利元就/wikipediaより引用

その後は大内氏や尼子氏を打ち破って、新たに中国地方の雄という立ち位置を確立。
九州の大友氏とも戦いました。

元就死後も、織田氏との対立や豊臣政権へ組み込まれるなどの困難を乗り越えながら、関が原の戦いで西軍総大将に担ぎ上げられ所領は1/3という大減封。
家康としては完全に潰しておきたかったんでしょうけどね。幕末にその悪寒は当たってしまいます。

毛利家は、江戸時代を通しても大きなお家騒動は起きていません。
藩主に子供が生まれなくても、江戸時代までの間に分家や家臣になっていた血縁者がたくさんいたので、養子に困らなかったからでしょう。

多産は何かと強いですね。

 

長宗我部(長曾我部)氏

秦の始皇帝の末裔・秦河勝の子孫と自称しています。
大内氏と同じく渡来人の末裔かもしれません。

平安時代末期~鎌倉時代初期に土佐国長岡郡宗部郷(現・高知県南国市)に移り住み、このあたりの東側に住んでいた香宗我部氏と区別するために「長宗我部」と名乗り始めたとか。

代々を土佐で過ごし、七代・長宗我部兼光のころ多くの庶流に枝分かれしました。
十一代・長宗我部信能が足利尊氏に属したことから、南北朝時代は北朝方として活動していたようです。

余談ですが、十五代目の当主も「元親」です。
戦国大名として有名なほうは二十一代目。同姓同名が密かにご先祖さまにいる――って、伊達政宗みたいですね。

織田信長は元親のことを「鳥なき島の蝙蝠」と呼んだため、フィクション作品で「田舎大名」と言われることのある長宗我部ですが、元親の進軍後、あっという間に四国を制圧さいたチカラは凄まじいものがありますね。

話を元に戻しまして、細川氏が土佐国守護代になった時代には、その下で現在の高知市の寺奉行を務めていました。
しかし、細川氏との結びつきがあったがために、その衰退の影響をまともに食らってしまいます。

十九代・兼序のときに周辺豪族の連合軍に攻められ、本拠・岡豊城(おこうじょう)は落城。
兼序は自刃し、息子・国親は幡多郡中村(中村市)の一条氏(土佐一条氏)の元に逃れ、ここで成長します。

一条氏は、れっきとした藤原北家の一員であるあの一条氏です。
応仁の乱の戦火を避けて、荘園だった土佐に移住してきた家であり、朝廷から正式に官位と土佐国司の職を与えられていました。

そのため、一条氏の当主(当時は一条房家)が
「長宗我部国親も成人したし、この機会に城を返してやれ」
と言えば、豪族たちは従わざるを得ません。

こうして一条氏のおかげで長宗我部氏は岡豊城に復帰したのですが、国親の子・元親は土佐統一、及び四国制覇のために一条氏を攻めています。

国親に城を取り返してやった頃と当主が変わっていた(この時点では房家の孫・兼定)こと、その兼定の能力がアレだったことから、悩んだ末に一条氏攻めを決めたようです。

そこで……やってきたのが次なる脅威・織田でした。

信長の進出は、四国と長宗我部に大いなるプレッシャー。
一時は、【本能寺の変】で難を逃れたかと思ったら、結局、豊臣秀吉に攻められ降伏せざるを得なくなりました。
降伏した代わりに土佐だけは安堵されましたが、元親はさぞ悔しかったでしょうね。その後も……。

 

大きな特徴は「分国法」での独立

好きな家がなかった方はスミマセン。お疲れ様でした。

戦国大名の特徴としては、家中の統一を図るために、【分国法】という自分のシマ内にのみ適用される法律を作っていることも挙げられます。

その先駆けとなったのが、細川政元の作った「細川政元式条」です。
五カ条のごく短い条文でしたが、これ以降、各地の大名が法を作るようにったので意義は大きい。

有名どころでは、今川氏の「今川仮名目録」、伊達氏の「塵芥集」、長宗我部氏の「長宗我部元親百箇条」などがあります。

分国法の多くが、中世の基本法である鎌倉幕府以来の「御成敗式目」をベースとしていることにも、注目すべきところでしょうか。
例えば
「喧嘩両成敗」
「他国の人間との結婚は禁止」
「大名家家臣と百姓の関係」
などが含まれています。

ちょっとおもしろいのが、下人の逃亡や帰属について規定があるところです。
当時、身分の低い使用人の夫婦は、別々の主人を持っていることも珍しくありませんでした。現代では「夫婦で違う職場」というのはごく普通のことですし、それでトラブルになることもそうそうないですよね。

室町・戦国時代の場合、夫婦仲がうまく行っているうちはいいのですが、お互いの主人の家を巻き込んでトラブルになることもままあり、武家だけでなく公家も頭を悩ませるケースがチラホラあったようです。

また、こうした夫婦の間に子供が生まれた場合、男子なら父親の主人の家、女子なら母親方の主人の家に所属することになっていました。
これも鎌倉幕府以来の慣例だったようです。

分国法についても、また後日個別に記事を出したいと思います。

戦国大名というと、まるで戦しかしていない印象もありますが、武士の成り立ちや鎌倉時代からの流れを追っていくと、領主として確実に進化していることがわかりますね。
なにせ鎌倉時代に入った時点で文字を読める武士は、「珍しい」レベルだったのですから。

そんなレベルから300年で法律まで自作できるようになった――って素晴らしいと思いませんか。

松永久秀は爆死ではない! 信長を二度裏切ったが実は忠義の智将【年表付】

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
守護・戦国大名・武田氏・今川氏・佐竹氏・細川氏・六角氏・北畠氏・大内氏・大友氏・島津氏・上杉氏・織田氏・尼子氏・朝倉氏・三好氏・伊達氏・松平氏・徳川氏・浅井氏・毛利氏・長宗我部氏・北条氏・斎藤氏・松永氏

 



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