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【戦国大名&守護大名】
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細川氏
足利氏の祖・足利義康の長男である足利義清。
さらにその孫である義季が、三河国の額田郡細川郷(愛知県岡崎市)に移ったことから細川氏を名乗りました。
鎌倉時代末期には、足利義季の曾孫の代で和氏・頼春・師氏兄弟と、顕氏・定禅・皇海兄弟が、足利尊氏に従って軍功を挙げ、多くの国の守護職や重職を得ています。
正平七年(1352年)には細川頼春が戦死。
さらには足利顕氏が病死したのち、頭角を現わしたのが細川和氏の嫡子・細川清氏でした。
清氏は二代将軍・足利義詮の代で戦功も挙げたのですが、増長しすぎて義詮に疎まれ、南朝方へ帰順(という名の家出)をしてしまいます。
その後、清氏は頼春の嫡子であるイトコ・細川頼之と讃岐で戦い、敗死しました。
頼之はこれまでの戦功と清氏討伐の戦果により、義詮の遺言によって室町幕府管領の職を与えられます。
そのため、頼之は幼い三代将軍・義満を守り立てながらも出過ぎることはしませんでした。一時は政争に敗れて中央から四国へ引っ込みますが、やがて復帰していますしね。
頼之には自分の子供がいなかったため、弟・頼元を養子として家を継がせました。
この時点で細川氏は【摂津・丹波・讃岐・土佐】四ヵ国の守護を世襲する大きな家になっています。
嫡流である【京兆家】
庶流である【阿波守護家・備中守護家・淡路守護家・和泉半国守護二家】
など、藤原氏にタメを張りそうなくらいの規模。
細川氏は子だくさんな人と子供に恵まれなかった人の差が激しいのですが、やっぱり前者のほうが多かったみたいですね。
しかし、応仁の乱で東軍の総大将だった細川勝元の息子・細川政元が【空を飛びたい】がために、清い身を保ったことで家が真っ二つに割れ、細川氏全体の力がガタ落ちしてしまいます。
その中で、和泉半国守護の家系である細川藤孝(幽斎)・細川忠興親子が巧みな処世術と実力で織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代を生き残り、江戸時代を生き抜いて今に至るわけです。
政元が普通に子供を作っていたら、日本人の中で細川家の血が流れている人の割合が高くなっていたかもしれません。
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武田氏
言わずと知れた武田信玄の武田氏。
その祖はいかなる経緯で甲斐に根を張ったのか?
河内源氏二代目・源頼義の孫であり、源頼光の子である源義清。
その義清が、常陸国吉田郡武田郷(茨城県勝田市)に定着して「武田冠者」と名乗ったことから武田氏となりました。
常陸を追われて甲斐に落ち着いてから、武田氏の歴史が本格的に始まります。
初代は武田信義。
【甲斐武田氏の初代】であり、源義光からの【甲斐源氏で考えると4代目】になりますね。
その信義は十二世紀末、治承・寿永の乱(源平合戦)で源頼朝につき、遠江守に任じられました。
親戚には信濃守・小笠原長清がおり、全体として甲斐源氏が鎌倉からの北西守備を請け負うようなポジションになります。
しかし、頼朝自身が、武田氏を含む甲斐源氏の勢力拡大を危惧し、彼らを冷遇し始めます。
信義は養和元年(1181年)に、「後白河法皇が頼朝追討使に任じた」という風聞が立っていたので仕方ない面もありますが……。
このときは起請文(「神に誓って悪いことはしてません」という内容の書状)を出して何とかなりますが、その後、信義の息子・武田忠頼が暗殺されたり、頼朝に兵を出されたりして散々な扱いを受けています。
頼朝さんも、この時点で、まだ平氏が片付いてないんですよ。
なのに、身内を疑ってどうする(´・ω・`)
信義の子・武田信光は頼朝に信頼されており、安芸の守護も兼任。
以降の子孫たちは甲斐守護と安芸守護を世襲し、また、甲斐の荘園における地頭職も、武田氏が多数を占めるようになりました。
信玄の時代も、甲斐国内の至るところに親類が根ざしています。
信光の子・武田信政以降の四代については記録が乏しく、働きぶりがよくわかっていません。
信光が【承久の乱(承久三年=1221年)】のしばらく後まで当主をやっていたので、それ以降の代は鎌倉での政争に巻き込まれずに済んだものと思われます。
他の鎌倉幕府重鎮が、北条氏に粛清されまくった事を考えれば、「手紙がないのは元気な証拠」ならぬ「記録がないのは平穏な証拠」といえなくもない……ですかね。
鎌倉時代末期~南北朝時代の当主・武田信武は足利尊氏に従って活躍し、あらためて甲斐と安芸の守護に任じられました。
このため、彼は【武田中興の祖】とされています。
信武の長男・武田信成は、父の転戦中に甲斐の守護代として留守を守り、次男の武田氏信は安芸国守護を継承、【安芸武田氏】の祖となりました。
源氏にしては珍しく兄弟間で平和に役職が分担されてますね。
※なお、この安芸武田氏から若狭武田氏(初代は武田信栄)も始まっております
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地勢上、鎌倉幕府とも室町幕府とも物理・心理両方の面で密接ではなかった武田氏ですが、応永二十三年(1416年)に起きた【上杉禅秀の乱】から少し情勢が変わってきます。
ときの当主・信満が禅秀(氏憲)の妻の兄であったことから、鎌倉府内の政権抗争に巻き込まれてしまったのです。
武田は禅秀方につき、すぐさま鎌倉公方・足利持氏に敗れて本国の甲斐まで攻め込まれ、武田信満は山梨郡の木賊山(とくさやま・現在は天目山・東山梨郡大和村)で自害しました。
その後、信満の弟、および長男・武田信重は、反武田氏を掲げる勢力に押され、近畿や高野山まで流れていきます。
一時期、甲斐を離れていたんですね。
やっと地元に戻れたのは、室町幕府六代将軍・足利義教の庇護があったから。
将軍の引き立てがなければ、甲斐武田氏はそのまま歴史に埋もれていたかもしれません。そうなれば信玄も生まれていなかった可能性が……。
武田信重の子・武田信守は早くに亡くなり、その子・武田信昌が九歳で家督をつぐと、跡部景家が守護代として専横を働きました。
信昌は、成人するのを待ち、寛正六年(1465年)に跡部一族を滅ぼして権利を回復。
しかしその信昌も、明応元年(1492年)に隠居して家督を長男・武田信縄に譲ったにもかかわらず政治に口を出しまくり、次男・信恵をえこひいきしたために兄弟間で争いが勃発してしまいます。トーチャン勘弁して!
影響は小さくなく、甲斐の国人層も真っ二つに分かれてしまい、国内は荒れ放題になるのでした。
結局、信昌が永正二年(1505年)に没すると、信縄もその二年後に亡くなり、信縄の長男・武田信虎が十四歳で家督を継ぎます。
信虎とは、信玄のトーチャン。ご存じの方も多いかもしれません。
このあたりから今川氏や後北条氏に介入されたり一戦交えたりが常態化し、信玄や勝頼の時代に続くわけです。
その後の話は有名ですし、大河ドラマでも何回もやってますので、今回は割愛しておきます。
よろしければ以下の別記事をご参照ください。
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佐竹氏
河内源氏の二代目・源頼義の孫・義業(源義清の兄)を先祖としています。
武田信玄と、だいぶ前の根っこが同じというワケですね。
佐竹氏を名乗るようになるのは義業の子・昌義の代からです。
時期としては12世紀前半。
平清盛や源義朝(頼朝のトーチャン)が生まれるちょっと前くらいの話です。
そこから半世紀程度で佐竹氏は常陸南部~下総をシマにしたといわれています。仕事が早いですね。
源平合戦では平氏方についたため、頼朝に追討されて一時所領を失いました。
が、奥州藤原氏との戦いで頼朝軍に参加、その恩賞として常陸に幾ばくかの領地をもらったようです。
その後の常陸での活動は定かではなく、美濃や伊勢で佐竹氏が活動していたらしきことが記録されています。って、どういうことなのよ(´・ω・`)
鎌倉幕府の滅亡後は足利尊氏に従い、常陸守護職を与えられて平安時代の所領をほぼ回復、さらに陸奥南部から常陸中央部まで進出していきました。
なんだか順調なように見えますが、この先は、家が断絶しかけたり、あろうことか藤原氏系である上杉憲定の子・竜保丸(のち義人)を養子にしたりして家中の混乱を招いたりもしてします。
戦国大名として有名な義重・義宣の代は比較的安定していました。
関が原の際はコッソリ西軍寄りになっていたおり、徳川家康の怒りを買って出羽へ国替え。
それ以降は出羽に落ち着き、明治時代には侯爵にまでなりました。
2018年現在の秋田県知事が、佐竹氏の末裔として有名ですね。
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六角氏と京極氏
どちらも宇多源氏の血を引く佐々木氏の一族です。
鎌倉時代に、五代目佐々木信綱の三男・佐々木泰綱が正室腹だったため跡継ぎになりました。
が、他の三人の兄弟がこれに不満を述べたため、鎌倉幕府が仲裁に入り、四兄弟で分割相続・独立。それぞれ大原氏・高島氏・六角氏・京極氏の祖となりました。
この時点で枝分かれしている上に、力も削がれてしまっています。
泰綱が嫡流なのに、なんで名字が「佐々木」じゃないのか?
というと、六角氏としての初代である泰綱が、京都の六角東洞院というところに屋敷をもっていたからです。よくある話ですが、ややこしいですね(´・ω・`)
京極氏は「蛍大名」で有名な京極高次が後に出てくる家です。
なぜ蛍大名かというと、高次の妹が秀吉の側室となり、また、自身の妻が浅井三姉妹・初であり、彼女らのおかげで出世した――という意味でヒソヒソ言われちゃったんですね。名門ゆえに僻まれたと申しましょうか。
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この京極家は、南北朝時代に足利尊氏に重んじられたため、佐々木氏の惣領の座を与えられ、子孫の代になって「四職」の一員ともなりました。
四職とは、室町時代の要職である侍所の長官を務める家柄で、他には赤松氏、一色氏、山名氏がおります。
いずれも嘉吉の乱やら応仁の乱やらで聞いたことのある名前ばかりですね。
対する六角氏は、南北朝時代には後醍醐天皇方だったため、後に尊氏に降ったものの、惣領の面子は失ってしまっています。
それが影響して室町時代にはあまり良いことがなく、国人たちにも背かれて、勢力を拡大することができませんでした。
血筋的には名門。
かつ近江という要所の大名なのに、戦国時代にあまり名前が出ず、織田信長の踏み台みたいな扱いをされてしまうのも、古い因縁のせいだったんですね。
ちなみに、信長に気に入られて出世した蒲生氏郷の近江蒲生氏は、六角氏の客将でした。
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優秀な家臣のほうが生き残る――というのはこの時代のあるある。
まぁ、その蒲生家も江戸時代の初期に断絶してしまっていますが……。
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