どうも、こんにちは!
れきしクンこと長谷川ヨシテルです。
全国的にはあまり知られていないけども、ある地域ではバツグンの知名度を誇るご当地武将をご紹介している当連載。
おかげさまでご好評をいただきまして、本日、ピックアップするご当地武将は「朽木元綱(くつきもとつな)」さんです!
「朽木元綱? 知ってるに決まってるじゃん」
という方、それは日々“戦国に浸りすぎ”かと思われます(笑)。
私は以前、朽木元綱さんの領地を取材で訪れ、朽木元綱や深い関係にあった足利将軍家についてのトークイベントで参加者の皆さんに尋ねて見たところ
「聞いたことない!」
「名字からして何て読むの?」
という反応が多いものでした。
残念ながら肖像画が伝えられていないので、どういった外見だったかも分からないのが知名度にも影響していそうですね。
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鯖街道が走る京都への要衝エリア・朽木谷
まずは朽木元綱さんの本拠地だった「朽木谷」の風景をご覧ください。
実に、のどかで良いところ!
京都から車で1時間ちょっと北東にある滋賀県の山間部で、琵琶湖からも10km以上離れた地域です。元々は「朽木村」でしたが、2005年に合併して「高島市」の一部になっています。
「朽木谷」というのは古くからの俗称。中央には、13世紀はじめの鎌倉時代に整備された若狭街道が走っており、若狭から京都に鯖を運ぶためにも使われていたことから、通称「鯖街道」とも呼ばれています。
なんでも、塩で〆たサバを若狭から1日かけて京都に運ぶと、ちょうど良い塩加減になったそうで、都でも人気を博したとのこと。
「鯖寿司」は朽木谷の名物にもなっているので、史跡巡りの合間に食べてきました!
これはもう“ウマすぎ謙信”でした!(最近推してるけど、どこにもハマってないフレーズ)
クセや臭みは一切なく、ただただサバの熟成された旨味だけが凝縮されている。本当に美味しいお寿司でした。
この美味しいサバ料理を食べていたであろう、今回の主役である朽木一族と朽木元綱さん。
マイナーではありますが、戦国史を大きく動かす決断を2回も下しているんですよ。
元綱さんの決断が無ければ、日本史は大きく変わっていたかも!(特に1回目のやつ)
てなわけでその歴史を見て参りましょう。
鎌倉幕府創設に関わった名家の系譜
まず「朽木家って何者よ!」ってことなんですけど……結論からいうと、結構な“名門”です。
朽木家の祖と言われるのは、鎌倉時代初期の「朽木義綱」。
「綱」は朽木家の当主が代々使用した通り字(例えば信長の織田家だと「信」)です。
名門武家のルーツと言えば、だいたい「平安時代後期から鎌倉時代初期」に遡ることができ、ここではさらに朽木家のご先祖様もご紹介しておきましょう。
源頼朝が伊豆で挙兵した頃からの側近で、鎌倉幕府の創設初期メンバーに「佐々木定綱」(近江源氏の出身)という武士がいます。
【治承・寿永の乱】(いわゆる源平合戦)で武功を挙げ、近江国(滋賀県)はじめ4カ国の守護に指名されました。
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その定綱の息子に、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で登場するであろう佐々木信綱がいます。
承久3年(1221年)に起きた【承久の乱】(鎌倉幕府と後鳥羽上皇の戦い)で、鎌倉幕府側として大活躍した武将なのですが。
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この佐々木信綱は父から引き継いだ近江国を息子たち4人に分割相続させます。
朽木谷を含む高島郡を相続したのが次男の「高島高信」でした。なんか、諸々がすっごい高そうな名前ですね(笑)。
高島高信はさらに、息子4人へ領地を分割相続。その中で朽木谷を与えられたのが、三男の「朽木義綱」だったというわけです。
長々とした説明になりましたが、つまりは
【朽木一族のルーツ】
佐々木定綱(頼朝の側近)
│
佐々木信綱(承久の乱で活躍)
│
高島高信(高島郡を相続)
│
朽木義綱(朽木家の祖)
という流れですね。
要するに朽木家は「鎌倉幕府創設に関わった名家の系譜」なんです。
彼ら高島高信の子孫たちは琵琶湖の西一帯に勢力を伸ばし、代表的な家が7つあったことから「高島七頭(党)」とも呼ばれています。
ちなみに永禄11年(1568年)の織田信長上洛戦で滅ぼされる六角家も、佐々木信綱の系譜だったりします。
六角家は、高島高信の弟(佐々木信綱の三男)にあたる「六角泰綱」から始まり、織田信長の時代は、大河ドラマ『麒麟がくる』でも登場するであろう「六角義賢(承禎)」という武将が当主でした。
六角家は佐々木信綱の系譜の本家にあたり、近江国の守護を務める家柄でもあります。
つまり、朽木元綱さんは本家である六角家の分家にあたり、六角承禎の遠〜い親戚でもあったというわけですね。意外な親戚関係!
足利将軍の争いに巻き込まれ六角家の傘下に
さてさて、名門の流れを汲む朽木家ですが、領地は小さく土地も豊かとは言えない、いわゆる「国衆」ポジションの一つでした。
本家・六角家からは独立した存在となって、独自の生き残り戦略を続けています。
例えば鎌倉時代末期。後醍醐天皇が倒幕のための挙兵をすると、当時の当主だった「朽木経氏」は先祖ゆかりの鎌倉幕府を見限って倒幕運動に参加します。
その後、後醍醐天皇と足利尊氏が対立して「建武政権」が崩壊すると、後醍醐天皇を見限って足利尊氏に味方。朽木谷の他にも全国各地に飛び地の領地を与えられています。
いわゆる「南北朝時代」へ突入し、朽木家は一貫して足利将軍家三代
に味方したことから、将軍家と深〜い繋がりが生まれています。
すいません、まだ朽木元綱さんの話に入りません(笑)。
早う!
という方は、スクロールして先に進んじゃってください!(→click!)
さて、その後、足利将軍家は、朽木家の本家にあたる六角家が敵対したため討伐を行います。
長享元年(1487年)と長享4年(1491年)に起きた【長享・延徳の乱】です。
別名「鈎の陣(まがりのじん)」とも呼ばれる一度目の討伐戦では、9代将軍の「足利義尚(足利義政の子)」に従って朽木家(当時の当主は「朽木貞清」)は参戦。
しかし、陣中で足利義尚が病死したため攻撃を中断すると、その跡を継いだ10代将軍の「足利義材(後の足利義稙)」が再び六角家を攻めて、もう無茶苦茶になっていきます。
足利義材が六角高頼(六角承禎の祖父)を近江国から追放するのですが、今度は細川政元が出てきて、足利義材が追放されてしまうのです。
それが明応2年(1493年)に起きた【明応の政変】です。
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このクーデター後に誕生したのが11代将軍「足利義高(後の足利義澄)」。
義高の就任によって六角高頼は近江国の守護に復帰することができ、同地方の国衆たちを束ねていくことになりました。
これ以降の朽木家は、やや疎遠になっていた六角家の支配下に組み込まれていくこととなります。
足利将軍家との強烈な結びつき
その一方で面白いのが、初代・足利尊氏からの足利将軍家との関係性です!
足利将軍家は、南北朝の対立や家臣たちの争いによって、京都から追放&逃走することが度々あり、その逃亡先の一つが朽木谷でした。
11代将軍の足利義澄は、自分を支えていた重臣の細川政元が1507年(永正4年)に暗殺されて【永正の錯乱】が勃発。
周防(山口県)に逃れていた足利義尹(義材が改名=後の足利義稙・改名するから本当にややこしい!)が上洛戦を決行したため京都から逃走すると、落ち延びた先が朽木谷でした。
また、12代将軍の「足利義晴(11代将軍・足利義澄の子)」は、細川高国という重臣にサポートされていましたが、大河ドラマ『麒麟がくる』にも登場する細川晴元に敗れたため、京都から逃げ出して、朽木谷に落ち延びています。
このあたりの将軍を巻き込んだ室町幕府のドタバタ劇は本当にゴチャゴチャしているんですよね!
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話を戻しまして……足利義晴は1528年(享禄元年)頃から1532年(天文元年)までの約4年間を朽木谷で過ごしました。
屋敷を構えた岩神館には庭園が築かれ、現在は「足利氏庭園」(旧秀隣寺庭園)として「国の名勝」に登録されています。
以下の画像をご覧ください。
高台に築かれた庭園から、麓を流れる安曇川と奥に佇む山々の景色が非常に美しいんです!
まぁ、何が言いたかったかと言いますと……。
朽木家は近江国守護となった六角家の傘下でありながら、古くからの信頼関係を築いていた足利将軍家と独自のパイプを持ち、さらに保護者となるなど、国衆的な存在でありながら諸勢力から一目置かれる勢力であったということです!
この将軍・足利義晴を保護したのが、今回の主役である朽木元綱さん! かと言うと、すいません、そうではありません。この時まだ、朽木元綱さんは生まれてません(笑)。
朽木元綱さんが生まれのは1549年(天文18年)のこと。足利義晴を保護したのは元綱さんの祖父「朽木稙綱」と、父「朽木晴綱」でした。
ちなみに「稙」や「晴」という字は、将軍から与えられたものです。
将軍から一字もらう慣例は、朽木元綱さんの曽祖父→祖父→父&叔父と続いています。
曽祖父・朽木材秀←足利義材
祖父・朽木稙綱←足利義稙
父・朽木晴綱←足利義晴
※朽木元綱さんの「元」はどこから?管領・細川家の通り字「元」から?
さてさて、お待たせいたしました!
ようやく主人公の朽木元綱さんの時代に突入いたします!
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