最初はぬるめのお茶を多めに、次にやや熱め、最後に熱く点てた石田三成の『三献茶』。
真偽はさておき戦国ファンにとってはお馴染みのエピソードですが、実はこれより先に同じ三献茶で殿様のハートを打ち抜いた女性がいたことをご存じでしょうか?
天正7年(1579年)10月2日に亡くなった種子島時堯(たねがしま ときたか)、その夫人・古田御前(ふるたごぜん)です。
ミスター種子島こと時堯の側室
種子島時堯は、島津氏に仕えた種子島家14代当主です。
名字からお察しの通り、所領は種子島。
時堯が当主をしていた1543年、この島にどんぶらこと流れ着いた中国船に積まれていたのが、ご存知、戦国時代の戦いを変えた鉄砲でした。
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乗船していたポルトガル人から2挺の火縄銃を買い上げた時堯は、そのうちの1つを島の鍛冶屋に渡して研究させ、鉄砲の国産化に成功します。
そしてそれ以降、同家は鉄砲と末永くお付き合いするのですが、今回の主役・古田御前は、このミスター種子島こと時堯の側室であります。
まずは時尭の奥方事情について軽く説明しておきますと……。
元々、時堯は、島津氏から正室をもらい2女をもうけておりました。
が、島津氏と敵対する禰寝(ねじめ)氏からも密かに姫をもらい、こっそり男児を作って隠しておりました。
これが正室にバレて、正室は島津へ帰ってしまうわけですが、古田御前はこの2人とは別の女性となります。
子育てにも見て取れる古田御前の聡明さ
古田御前との馴れ初めは、時堯が国上村へ猟に出たときのことでした。
猟の最中、時尭が喉の渇きを癒やすため、ある家に入ったところで出されたのが、最初はぬるく、次に少し温め、最後は熱い三献茶でした。
このお茶を用意したのが、他ならぬ古田御前。
彼女の知性をいたく気に入った時堯が、自身の側室としたのです。
豊臣秀吉と石田三成のエピソードが天正2年(1574年)頃で、古田御前が時堯の息子・久時を生んだのが永禄11年(1568年)ですから、元祖・三献茶は古田御前なのですね!
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実際、古田御前はクレバーな女性でした。
それは彼女の子育てに見てとれます。
時堯の妻となって彼女がもうけた男児は、家督を継いだ腹違いの兄が早世していたため、種子島氏第16代の嫡子となります。
母である古田御前は戦乱の世を生き抜くため、ことのほか厳しく育てました。
まず、住まいからして、お屋敷ではありません。
息子の住まいは、わざわざ種子島で一番寒く、霜が降りる古田の地を選んだのです。
そして裸足で毎日槍稽古をさせて、どんな寒い日でも休ませない。
厳しい教育の結果、息子の種子島久時は立派に成長しました。
島津家の強さを支えた種子島久時の鉄砲術
久時15歳の時、島津義久に従って狩りに行った際、誰も仕留めようとしなかった大イノシシを倒し、褒美に鎧を贈られております。
その後も島津家の家臣として活躍し、文禄・慶長の役にも従軍。
久時は鉄砲術に優れ、島津義弘をはじめとした同家の軍が朝鮮半島で無類の強さを誇ったのは、そのノウハウによるところも大きいと言われております。
寒さ厳しい場所での稽古が役立ったのでしょう。
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一方、古田御前は天正十七年(1589年)、古田の地で没しております。
種子島家の御拝塔墓地にある古田御前の墓には「是人於仏道決定無有疑」と、わざわざ仏教徒アピールの刻字がなされていることからキリシタンであったことが推測。
現在、御前の屋敷があったとされる古田小学校の校庭には、賢母遺蹟碑と母子像が建立。
今も種子島を見守っています。
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【参考】
私たちの種子島<歴史編> 西之表市教育委員会 西之表市文化財保護審議会 編
写真で見る種子島の歴史 鮫島安豊 たましだ舎
種子島時堯/wikipedia
種子島久時/wikipedia