こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【尼子晴久】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
「天空の城」月山富田城ならば負けない
吉田郡山城攻めの翌年、大内家が尼子家の本拠・月山富田城を攻めてきました。
以下の【第二次月山富田城の戦い】記事で「元就は過去に月山富田城を一度攻めたことがある」と書きました。
第二次月山富田城の戦いで毛利が尼子を撃破!石見銀山を手中に収めて中国王者へ
続きを見る
それがこのときのことで、もちろん元就以下毛利家の面々も攻め手にいました。
しかし、尼子家もそう簡単には倒れません。
月山富田城は「天空の城」とあだ名されるほどの地形に築かれた城です。さしもの大内家らも簡単には落とせませんでした。
すると、ここで一度寝返った豪族たちが
「何かこのままだと尼子のほうが勝ちそうじゃね? 今なら謝ればまた仲良くしてもらえるかも」(超訳)
と考え、再び尼子家につくという事態が起きます。
地獄の沙汰も金次第ならぬ、武力次第というところでしょうか。
ともかく、これにより背後を突かれる形になった大内家や毛利家は、命からがら撤退。
おかげで尼子家は最低限の勢力を保つことに成功します。
ここから再び回復させるためには長い時間を費やさなくてはならず、大内家についた親族の粛清や、小競り合いがしばらく続きました。
にしても、ここで息を吹き返す晴久の手腕はスゴイですよね。
元就と雌雄を決する前に……
一方、大内家では陶晴賢の裏切りにより大内義隆が斃されたため、中国地方の勢力図が大きく変わります。
西国一の戦国大名だった大内義隆はなぜ滅んでしまったのか?45年の生涯まとめ
続きを見る
朝廷や室町幕府には「大内がダメなら尼子にちょっと目をかけてやるか」(超訳)と見られ、晴久に正式な官位や役職が与えられています。まさにタナボタ。
晴賢とはしばらくの間手を組んだり戦ったりとやりあうことになりますが、【厳島の戦い】で晴賢が元就に敗れると、大内家そのものがもはや脅威ではなくなりました。
厳島の戦いで毛利軍の奇襲が炸裂! 陶晴賢を破って元就が中国地方の覇者へ
続きを見る
そのため、晴久は領土確保・防衛のために動いていくようになります。
晴久の晩年には、元就が旧大内領の大半を支配下に収めたため、毛利家と再び対峙……するのですが、最終的な決着が付く前に、晴久は急死してしまいました。
尼子家の記録である『雲陽軍実記』の記述から、死因は脳溢血とみられています。
享年47は当時の寿命としてはちょっとだけ早い程度。
時代と状況的に暗殺もありえそうですが……まぁ、何とも言えませんよね。
晴久を「短慮で大将の器ではない」と表する向きもあります。
しかし、一度は崩れかけた家の勢力を盛り返したことは、評価されてしかるべきではないでしょうか。
神社の再建や大陸との交易もしていますし、内政のほうが向いていたのかもしれません。次に家督を継いだ息子・尼子義久もそんな節があります。
義久の代で、大名としての尼子家は終わりを迎えながら、血筋は現在まで続くのです。
あわせて読みたい関連記事
不安定だった12代将軍・足利義晴は13代義輝や15代義昭の父~40年の生涯に注目
続きを見る
毛利元就が安芸の小勢力から中国地方8カ国の大大名に!その戦略戦術は神業なり
続きを見る
西国一の戦国大名だった大内義隆はなぜ滅んでしまったのか?45年の生涯まとめ
続きを見る
なぜ戦国時代の大内家重臣・陶晴賢は下剋上を起こし最終的に毛利に滅ぼされたのか
続きを見る
第二次月山富田城の戦いで毛利が尼子を撃破!石見銀山を手中に収めて中国王者へ
続きを見る
厳島の戦いで毛利軍の奇襲が炸裂! 陶晴賢を破って元就が中国地方の覇者へ
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
山本大/小和田哲男『戦国大名系譜人名事典 西国編(新人物往来社)』(→amazon)
尼子晴久/wikipedia