信長の隠れ岩

戦国諸家

信長の生死や関ヶ原の行方を決めた 近江の名門 朽木一族と元綱の功績をご存知?

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剣豪将軍の避難先も朽木谷だった

朽木元綱さんは、織田信長の15歳年下、豊臣秀吉の11歳年下、徳川家康の7歳年下にあたります。

同学年ですと、大河ドラマ『麒麟がくる』でもキーマンとして登場していた「筒井順慶」などがいますね。

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父(朽木晴綱)が1550年(天文19年)に合戦で討ち死にしてしまったため、数え年2歳で朽木家の家督を継承。

この頃は足利義晴を保護した経験を持つ祖父(朽木稙綱)が朽木家の舵を取っていたようです。

また、父が亡くなった同年に、朽木家が保護した足利義晴も病死(病気を苦にした自殺説も)しています。

既に将軍職は息子に譲られており、13代将軍となっていたのが『麒麟がくる』で向井理さんが演じていた「足利義藤(後の足利義輝)」です。

“剣豪将軍”の異名を持つことでもお馴染みですね。

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天文15年(1546年)に11歳で将軍となっていた足利義藤は、父と共に近江国に落ち延びていたました。

それから約4年後の天文19年(1550年)、京都に入ろうとしたとき陪臣(家臣の家臣)にあたる三好長慶と【中尾城の戦い】を起こして敗走。翌年、これまた朽木谷へと逃れています。

その後、三好長慶と和睦をして京都に戻るも、再び対立。

天文22年(1553年)に再び三好長慶と戦い敗れて【霊山城の戦い】、またまた朽木谷に逃れ、それから約5年――弘治4年(1558年)に三好長慶と和睦して上洛するまで、朽木谷で暮らしました。

その間に名を「義輝」と改め、全国に修行の旅に出ていた剣豪の塚原卜伝に剣術を学んだとも伝えられています。

塚原卜伝

足利義輝が朽木谷にいたのは、朽木元綱さんが3歳のときと、5歳から10歳の頃になります。

ところが、京都に戻った足利義輝は永禄8年(1565年)【永禄の変】で三好家の軍勢(三好三人衆や松永久通がメイン)に襲撃されて壮絶な討死となりました。

 


浅井家の台頭と義昭の上洛……その時、朽木家は!?

近江国でも、そのころに異変が起きます。

あの六角家が永禄3年(1560年)【野良田の戦い】で浅井長政に敗れるとにわかに没落を始め、代わりに小谷城(小谷城・滋賀県長浜市)を本拠地とする浅井家が台頭してきたのです。

朽木谷にも浅井家の軍勢が攻め寄せることもあったほどです。

ここで朽木元綱さん(実権は祖父)は、浅井家への臣従を誓いながらも、程良い距離感を上手く取り、独立した勢力を保ちつつ「安土桃山時代」へと突入していきます。

足利義輝の死後、弟の覚慶(後の足利義昭)は幕臣の細川藤孝(細川幽斎)などの手助けもあって、興福寺から抜け出して近江国から越前国(福井県)へ亡命。

朝倉義景を頼りました。

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その後は戦国ファンにはおなじみの展開ですが、改めておさらいしておきます。

越前の朝倉義景に上洛を催促するも断られた足利義昭は、織田信長を頼って永禄11年(1568年)に上洛戦を決行。

その道中、観音寺城(滋賀県近江八幡市)を居城とする六角義賢を滅ぼして京都へ進み、三好三人衆らが擁立した14代将軍・足利義栄(義輝&義昭の従兄弟)を廃すると、見事、自身が15代将軍に就任します。

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その翌1569年(永禄12年)1月のことでした。

織田信長が岐阜城に帰ったタイミングを狙い、三好三人衆や斎藤龍興が本圀寺(京都市山科区)の足利義昭を襲撃します。

本圀寺の変】と呼ばれ、細川藤孝や明智光秀などが足利義昭を守るのですが、このとき急を聞きつけた朽木元綱さんも朽木谷から援軍に馳せ参じたといいます。

そして翌元亀元年(1570年)のこと。

織田信長が上洛を拒否する朝倉義景を攻撃するため越前に侵攻すると、その最中、義弟の浅井長政(正室が信長の妹・お市の方)が織田家に叛旗を翻し、信長を挟み撃ちにしようとしました。

絶体絶命に陥った信長。

殿(しんがり・最後尾のこと)に木下藤吉郎(秀吉)や明智光秀らを残して帰還することを決意しますが、まさか浅井長政の領地を通るわけにはいきません。

そこで、琵琶湖西岸の鯖街道を通って京都に落ち延びることとなりました。

金ヶ崎の退き口】です。

 


金ヶ崎→京都ルートの間にある朽木谷

【金ヶ崎の退き口】のルート途中にあったのが、先の地図でも出てきた朽木谷でした。

もう一度見ておきましょう。

福井県から京都へ。

琵琶湖の西岸を通っていくと、間に高島市(朽木谷)がバッチリありますね!

このルートはいわゆる「朽木越え」と呼ばれ、その名の通り朽木谷を通ることになります。

朽木元綱さんは浅井長政との微妙な距離感がありながらまだ独立した勢力を保っています。ただ、先の【本圀寺の変】で足利義昭を救援したからといって、織田信長に臣従したわけではありませんでした。

「朽木元綱は味方か否か?」

浅井朝倉から逃げる織田信長は朽木谷まで差し掛かったところで大警戒!

ここで織田信長を討ち取ることは容易であったと思われますが、朽木元綱さんは織田信長を保護して京都までの道案内を務めたのです。

もし仮に、朽木元綱さんが織田信長を討ち取っていたら?

3年後に浅井長政や朝倉義景が滅亡することも無かったか先延ばしになったでしょうし、それ以降の戦国史も大きく塗り替えられることになったでしょう。

これが朽木元綱さんの決断パート1です!

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では、なぜ朽木元綱さんが織田信長を保護したのか?

ハッキリしたことは分からないのですが、おそらく織田信長が足利義昭の許可を得て、あくまで将軍の代理として越前に攻め込んでいた「大義名分」があったからだと思われます。

つまり「織田信長=足利義昭」であり、朽木家の御家芸でもある将軍(代理も含めて)保護したのではないでしょうか。

ちなみに、織田信長は朽木元綱さんが本当に味方してくれるか、同行していた松永久秀に確認して説得してもらう間、自身は朽木谷の北にある洞穴に隠れていたといいます。

現在も「信長の隠れ岩」として伝えられています。奥までは入れないんですが、

朽木谷の北にある洞穴「信長の隠れ岩」にて

私も手前の岩に隠れてきました(笑)。

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