山中鹿介(山中幸盛)

山中鹿介(山中幸盛)/wikipediaより引用

戦国諸家

山中鹿介(幸盛)は戦国一の忠義者? 七難八苦に立ち向かった苦難の生涯とは

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吉川元春に捕まり……脱出!

その後、毛利軍は、鹿介ら尼子再興軍の鎮圧に向け、出雲へやってきました。

まだ月山富田城を攻略できていなかった尼子再興軍は、布部山(現・島根県安来市)で毛利軍を追い返そうとしたものの、あえなく敗北。

月山富田城へ毛利軍が加勢してしまい、攻略が余計に難しくなってしまいます。

命の懸かった戦場で、旗色が悪くなれば、テンションが下がるのがお決まり。この影響で、尼子再興軍は下火になっていきます。

しかし、絶望的な状況でもありませんでした。

毛利では、絶対的存在・元就の死期が近づきつつあり、毛利軍の一部が撤退したため、まだまだ付け入る余地があったのです。

実際、月山富田城の攻略こそ成功しませんでしたが、島根半島の各所を制圧し、海運ルートを確保しています。

とはいえ、です。
水軍と言えば毛利とばかりに、水軍の増派を行うと、形勢は再び逆転。

尼子再興軍の拠点が次々と落とされ、尼子勝久は隠岐へ逃れ、鹿介はあろうことか吉川元春に捕えられてしまうのでした。

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しかし、鹿介は一度失敗したくらいでは諦めません。

元春の隙を突いて脱出し、勝久の後を追いかけて隠岐で潜伏。

しばらくしてからて但馬(現・兵庫県北部)に渡り、協力してくれそうな武将と連絡を取って、再起の機会を伺います。

 

わずか1000の兵で鳥取城を攻め落としノリノリ!からの~

元就が亡くなって二年ほどだった元亀四年(1573年)、鹿介は再び動き出しました。

但馬から因幡(現・鳥取県東部)へ攻め込み、桐山城(現・鳥取県岩美郡)を攻略して拠点にして、再び月山富田城を目指すのです。

このときも鹿介以下、尼子再興軍の士気は非常に高く、約1000人の攻撃兵で、5000人が籠もる鳥取城を攻略しました。

しかも、わずか2ヶ月程度というのですから驚きです。

ただし、その後、毛利軍に鳥取城を奪い返されたり、味方を調略されて勢力を弱めたりして、一筋縄では行かなかったのですが……まぁ、相手は百戦錬磨の毛利ですしね。

というか根本的に、鹿介の言動を見ている限り、長期的な視野が欠けているような気がしちゃいまして……。

事が起きてからの動きはとても早いのですが、このときも鳥取城を奪い返されてから柴田勝家に連絡を取ったりしています。

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どうせなら早いうちに(毛利家とぶつかりあう)織田家や大友家を味方につけておけば、最初からもう少し良い状況を作れたんじゃないかと。

地勢については鹿介たちのほうが詳しかったでしょうけれども、兵数で上回るのはほぼ不可能なわけですし……せめて戦略でなんとかしないといけませんよね。

中国地方での協力者は、情勢の変化などにより毛利家に滅ぼされたり、降伏したりして、ますます尼子再興軍は孤立化していきます。

こうして、二度目の再興運動も天正四年(1576年)5月には頓挫してしまいました。そして……。

 

信長を味方につけ新たな再興運動をスタートさせるも

「もっと力を持つ人物に協力してもらわなければ!」

二度の失敗を経て、鹿介はそういった考えに至りました。

織田信長を味方につけるために京都へやってきます。

運良く直接会うことができ、信長は鹿介を「良い男だ」と褒め、「四十里鹿毛」という駿馬を贈ったとか。

そして織田家の客将扱いとなり、信長の中国攻略の一部として尼子家再興を目指すことになります。

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鹿介たちは、まず明智光秀の軍に加わり、各所の城攻めにかかりました。

敗走する明智軍の殿しんがりを務めて光秀から褒美をもらったこともあり、光秀はもちろん、織田家内での存在感も強めていったと思われます。

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それを信頼されてか、松永久秀討伐では信長の嫡男・織田信忠の下で働いており、久秀配下の武将と一騎打ちで勝利を収めました。

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上月城が毛利の大軍に囲まれる

その後、秀吉が中国方面攻略担当になったため、鹿介たちは明智軍から豊臣秀吉軍に移ります。

鹿介たちは播磨西部の上月城を拠点とし、ここから尼子家再興を目指すことにしました。

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しかし、2ヶ月ほどして3万以上という毛利の大軍に包囲されてしまいます。

なんという不幸な展開なのでしょう。

秀吉は1万ほどを率いて救援に向かったのですが、最終的に信長から「そこはいいから他を攻めろ」という命令が来てしまい、上月城は実質的に見捨てられることに……。

信長はおそらく、「鹿介がうまくやれればそれでよし、うまく行かなくても捨て石にはなる」くらいの考えでいたのでしょうね。

鹿介が有能でやる気があったのは確かですし、信長としては遠慮なく使える手駒が増えて万々歳だったでしょうし。

ついでにいえば、もしも鹿介がうまくやって本当に尼子家を再興できたら、それはそれで恩を売れますので、世間では「信長は亡国の将を助けてやった慈悲深い大将だ」という評価を買うことができたでしょう。

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