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【山中鹿介(山中幸盛)】
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尼子勝久もまた泣かせることを言うのぅ
上月城では救援が期待できなくなった上、兵糧が尽きたために逃亡者が続出するようになりました。
正面切って戦うのは不可能と判断した鹿介たちは、毛利軍への降伏を選択。
おそらくは、このときも鹿介は「またダメだったなら、もう一度逃げてやり直してみせる」と思っていたのでしょうね。
しかし、毛利もさんざん手を焼いていますから、今度はそうそう甘くありません。
彼らの出した降伏条件は、尼子勝久と弟・助四郎の切腹、及び鹿介と立原久綱(鹿介と同じく尼子再興軍の中心人物)を人質にすることでした。
鹿介は降伏に際し、勝久の命だけは助けてくれるよう、吉川元春と小早川隆景に懇願したそうです。
元就の三男・小早川隆景はキレ者だった~王佐の才は毛利や秀吉に重宝されて
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ですが、返事は「勝久が腹を切れば、城内の他の者の命は助けてやる」というもの。
つまり、勝久一人の命と、城内の兵全員の命を天秤にかけろ、ということです。
鹿介は勝久に対し、涙ながらに
「私もお供をしたいのですが、吉川元春は特に憎い敵なので、せめて奴の寝首をかいてから殿のお後に従います」
と言ったとか。
これに対し、勝久もまた泣かせることを言うのです。
私は一時とはいえ、尼子の大将という栄えある立場に立つことができた。
だから、自分が腹を切って皆が助かるならばそれで良い。
それに、元春は知勇に優れた男だから、そなたの思うような機会は来ないだろう。
だからお前は私の伴などせず、尼子の血を引く人物を探して、もう一度当家再興を目指してほしい。
かくして毛利軍の要求に粛々と応じたそうで……。
鹿介は、心ならずも二度、主君と涙の別れをしたことになりますね。
備中松山城への連行途中で暗殺!されてしまった
鹿介は輝元が在陣する備中松山城に連行されるハズでした。
しかし、現在の岡山県高梁市で毛利氏家臣の福間元明に暗殺されてしまいます。
これだけ粘っていれば、毛利からの各所で恨みも買っていたでしょうし、無理もありません。
毛利家から見れば、鹿介らが尼子再興を早く諦めていれば、北九州のいくらかは手に入っていたかもしれないのですから。
鹿介には人格者だったと思しきエピソードが複数あるのですけれども、暗殺された直後にもこんな話があります。
彼が殺されたとき、側には二人の小姓がついていたそうです。
彼らは鹿介の遺体を川岸に葬り、その塚の上に桃の枝を差して「もし天に情けがあるのならば、この枝を大木となしたまえ」と念じ、二人とも切腹したのだとか。
その後、毛利の追っ手が二人の遺体を鹿介の塚に並べて葬ってやったそうです。
関が原での大谷吉継と湯浅五助、そして藤堂高刑(高虎の甥)を思わせる、武士らしい話ですね。
が、なぜかそのうち「この木を削って飲めば、瘧(※)が治る」と噂されるようになり、あっちこっちから人がやってきて削っていったので、その桃の木は枯れてしまったのだとか……。
病気が恐ろしいのはわかりますが、人の墓標になっている木を削るのも罰当たりというか、祟りがありそうで怖いとか思わなかったんですかね。
まぁ、真田お梅(真田幸村の娘)の墓も「歯痛に効く」という噂が立ってボロボロになってしまっていますし、類例はたくさんあるので、かつての日本では珍しくなかったのかもしれませんが。
※瘧(おこり)……蚊を媒介とするマラリアのことで、当時の日本では感染率・死亡率が高かった
「お家に尽くした悲劇の武将」として持て囃され
鹿介の他にもいた尼子旧臣は、亀井茲矩(かめいこれのり)という人物を中心として秀吉の家臣となり、戦国と江戸時代を生き延びたといいます。
ヒロイックなのは鹿介ですが、「自分の家を残す」という目的を達したのは茲矩や亀井家ということになりますかね。
鹿介は江戸時代に「お家に尽くした悲劇の武将」として講談でもてはやされるようになり、英雄視されるようになっていきました。
おそらく、鹿介は徳川家康たちとは戦っていないので、そういう扱いにしても問題なかったのでしょう。
また、
・幼い頃から文武両道
・勇猛な美男子
・鹿角の兜
・数々の名刀を所持していた
というような、わかりやすいトレードマークが複数伝わっているのも英雄化の理由と思われます。
天下五剣の一つ「三日月宗近」を一時所持していた説もありますね。
ただこれは「三日月に誓いを立てた」というエピソードから、後世になって結び付けられた可能性も高そうです。
話ができすぎてますし、そもそも三日月宗近は所持者や伝来に謎が多いですからね。
生まれ変わりがあるとすれば源平時代の武将かな
鹿介が所持していたとハッキリわかるのは「新身国行」という太刀です。
勝久との今生の別れの際に贈られたとされているので、ほんの一瞬ですけれども。
鹿介が暗殺された後、新身国行は秀吉に献上され、豊臣家が所蔵していました。江戸時代の記録に登場しないため、大坂落城の際に焼失したと考えられているようです。
三日月宗近や新身国行は、太刀(たち)と呼ばれるタイプの刀です。
源平時代などの一騎打ちが多く行われた時代に好まれた反りの大きな刀で、戦国時代では名物・美術品・宝物としての価値はあっても、愛用する人はさほど多くはありませんでした。
力自慢を誇示するために、太刀よりもさらに大きい大太刀というものを愛用した人もいますが、ごく少数派です。
室町時代以降は「打刀」というタイプが好まれています。
何がどう違うのかというと、太刀は長いため馬上からも相手を斬ることができます。
打刀は太刀よりも短いので、白兵戦や集団戦に向くとされています。
室町時代以降であれば、単純に「刀」といった場合はだいたい打刀です。時代劇などの殺陣で使われているのも、おおむね打刀でしょう。より短ければ脇差かと。
打刀が生まれたために集団戦が主流になったとも言えますし、その逆と見ることもできますね。
一騎打ちを得意とした鹿介が、三日月宗近や新身国行を持っていた、というのは辻褄が合うというか、合いすぎというか。
やってることといい、一騎打ちが得意なことといい。
鹿介は戦国時代というよりは源平時代の武将のようです。
輪廻転生というものが本当にあるのならば、源平時代の誰かの生まれ変わりなのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
『「毛利一族」のすべて (別冊歴史読本―一族シリーズ (92))』(→amazon)
渡邊大門『山陰・山陽の戦国史 (地域から見た戦国150年 7)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
山中幸盛/Wikipedia