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【死の直前の戦国大名】
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伊達政宗
伊達政宗の最期については、近習だった木村宇右衛門という人が詳細な覚書を残しています。
それによると江戸へ向かおうとする政宗は、出発時点で既に病を発しており、「最期のご奉公」を意識して向かったとされます。

伊達政宗/wikipediaより引用
江戸には無事着いたけれど、本格的に病状は悪化。
亡くなる前日の23日夜に政宗は
「若い頃には戦場で九死に一生を得てきたが、年を取って畳の上で死ぬとは思いもしなかった」
「上様の先手となって、子らに戦を教えてやりなが死にたかった」
と言っていたとか。
上様こと、当時の将軍は三代・徳川家光です。

徳川家光/wikipediaより引用
家光が参勤交代の制度化を諸大名の前で告げた際、政宗は
「ご命令に背く者があれば、この政宗に討伐をお命じください」
と自ら申し出たことによって、その場の動揺を収めた……という逸話があります。
話が事実かどうかはともかく「政宗が公の場で幕府への忠誠をアピールしていた」のは間違いなさそうですね。
そしてそれは「戦で役に立つ」ことを前提にしたものが多かったため、今際の際にも前述の言葉が出たと思われます。
政宗については関ヶ原ぐらいまで危ない橋を渡っていたこともあって「死ぬ間際まで天下を狙っていたのでは?」と言われたりします。
しかし、これらの発言・逸話や、後継ぎの伊達忠宗の性格や実戦経験がないことなどを考えると、ある程度の年齢から領土拡大に対する欲など消え失せていたのではないでしょうか。
歳を重ねて落ち着いた政宗ってのも悪くないじゃないですか。
というわけで、最後に細川忠興を見ておきましょう!
細川忠興
細川ガラシャに対する偏執的な愛情で知られる細川忠興。
忠興もまた政宗に負けず劣らず強烈なエピソードが多い人ですが、息子の細川忠利に家を譲ってからは、文化人としての顔を強く見せていました。

細川忠興/wikipediaより引用
忠興と忠利は、交代で江戸と国元にいるようにし、手紙で互いの情報を頻繁に送ることによって、代替わりや遠隔地におけるトラブルを防いでいます。
素晴らしい連携ですね。
しかし、忠興が長命だった分、息子の忠利に先立たれるという不幸にも見舞われました。
忠利が危篤に陥ったとき、江戸にいた孫(忠利の子)の細川光尚へ送った手紙が実に泣けるのです。概要だけでも見ておきますと……。
「忠利の病気は良くなったものと聞いていたが、突然危篤だという知らせが来た。
慌てて熊本まで来たけれども、もう手遅れのようだ。
光尚はどうにか幕府へ話をつけて国元へ戻ってきてほしい。
私は気が動転してしまって、どうしていいのかわからない」

細川忠利/wikipediaより引用
なんでしょう、このしみじみと溢れ出る哀しみは……。
かつて「天下一気の短い人物」やら、妻・ガラシャに「鬼」とまでいわれた人と同一人物とは思えません。
忠興は忠利に先立たれた後、四年ほど生きたのですが、今際の際に周囲の家臣たちを見て、
「皆どもが忠義、戦場が恋しきぞ」
「いづれも稀な者どもぞ」
と言っていたとされます。
文字通りに受け取れば、戦場で戦っていた自らの若い頃と、従ってくれていた家臣たちの姿が懐かしかったと取れるでしょう。
あるいは、その頃にはまだ元気だったであろう、愛息子の姿が恋しかったのでしょうか。
政宗や忠興は江戸時代の始まりに対してうまく順応していったといえる人たちですが、それでも根っこの部分にはやはり
「武士は武働きを見せてこそ」
という思いがずっと残っていたのでしょう。
その意味では、この二人も無念を抱えて亡くなったのかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
小和田哲男『豊臣秀吉(中公新書 784)』(→amazon)
藤井讓治『徳川家康 (人物叢書 新装版)』(→amazon)
山本博文『徳川秀忠 人物叢書』(→amazon)
小林千草『伊達政宗、最期の日々 (講談社現代新書)』(→amazon)
山本博文『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状 (講談社文庫)』(→amazon)