小見の方

絵・小久ヒロ

斎藤家

帰蝶の母にして信長の義母~小見の方を知れば明智家や斎藤家がわかる!

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『言継卿記』の中に重大な記述あり

その後、小見の方の活躍については史料から姿が消えてしまいます。

わかっていることは……前述のように天文18年(1549年)、娘の帰蝶が信長と結婚したことです。

彼女は信長の義母となりました。

ただし、その時点では斎藤家が健在であり、交流が頻繁にあったとは思えません。

そして娘を織田家に娘を送り出してすぐの天文20年(1551年)、小見の方は39歳の若さで亡くなってしまうのです。

『美濃国諸旧記』にはそう記されております。しかし……。

近年になって貴族・山科言継(やましなときつぐ)が記した日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』に興味深い記述が発見されました。

注目すべき記述は永禄12年(1569年)の7月27日と8月1日。

まずは7月27日から見てみましょう。

7月27日の日記

「信長が、すでに故人となっていた斎藤義龍の持っていたツボを差し出すよう何度も帰蝶(濃姫)に言ってきたらしい。

しかし、帰蝶(濃姫)が『そのツボは稲葉山城が落ちたときに紛失したものだし、それでも寄越せと言うならわたし(帰蝶)やその兄弟姉妹16人で自害する。また美濃の国人衆30人余りも自害する』と信長に告げると、結局『それならそのツボは紛失したということで…』と信長が折れ、無事に解決した」

続いて8月1日分の日記へ。

8月1日分の日記

「信長と会って礼を言った。

すると彼は、これから姑(小見の方?)のところに、ツボの一件が解決したと礼に行くというので、その屋敷まで同行した」

この二つの記載は一見すると「良くも悪くも戦国らしい夫婦のおもしろエピソード」ぐらいに思われるかもしれませんが、歴史学的にも非常に価値のある一節。

姑とは言うまでもなく「妻の母」にあたります。

この件で「妻」といえば濃姫ですから、彼女の母、つまり小見の方となります。

しかし、永禄12年(1569年)の7月27日と8月1日というのは、既に小見の方が亡くなっているはずの時期です。

この矛盾はどういうことか?

 

永禄12年時点で小見の方も帰蝶も生存していた

答えは単純ですね。

『美濃国諸旧記』と『言継卿記』という二つの史料のうち、そのどちらか、あるいは両方がウソ(誤記)だという可能性が高いということです。

内容からしてどちらも真実――という状況はありえないことを前提に先へ進みましょう。

「どちらも、あるいはどちらかウソをついている」という可能性。

それは我々が目にする歴史の記述、どんな史料にも言えることです。

しかし、この二つの史料には「信ぴょう性」という点で大きな差があります。

というのも、冒頭でも説明したように『美濃国諸旧記』は江戸時代に作成された史料で誤りを多く含む一方、この『言継卿記』は戦国時代の公卿・山科言継という人物によって同時代に書かれた史料です。

言継は戦国武将とも広く交流しており、戦国時代を研究するうえで避けては通れない一級文書とされていあmす。

となれば、どちらを信じれば良いか?は明らかでしょう。

小見の方は永禄12年時点で生存しており「信長に離縁された」「病死した」などと囁かれた娘の帰蝶も、まだ織田家中で大きな影響力を有していたと考えるべきです。

 

小見の方はドコで何をしていたのだろう?

小見の方が天文20年(1551年)に亡くなっていない――となると、新たな疑問が湧いてきます。

帰蝶が生まれてから言継卿記に記述された永禄12年(1569年)まで。

彼女はいったいどこで何をしていたのか?

当然ながらその空白を埋められる史料は残されておらず、ハッキリと断言することは不可能です。

しかし、この時期は小見の方だけでなく明智家・斎藤家にとっても激動の十数年でしたのでその歴史から類推することは可能です。

できるだけ客観的事実に基づいて想像してみたいと思います。その点ご承知の上、お付き合いください。

まず、濃姫を生んだ天文4年(1535年)にさかのぼって考えてみます。

この時期は夫の斎藤道三が美濃をめぐる土岐氏の争いに介入し、土岐頼芸を支援して勢力を強めていました。

斎藤道三が親子二代で下剋上を成し遂げたという二代記説を採用しても、同時期には道三が斎藤家を継いでいたはずなので問題はありません。

その後、天文11年(1542年)ごろに道三は美濃国を手中に収め、小見の方も美濃国主の妻となりました。

そして、尾張国の織田信秀と抗争を繰り広げているうち、お互いに脅威を感じ、天文18年(1549年)に【信長―帰蝶】の婚姻へと繋がります。

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道三は天文23年(1554年)時点で隠居し、小見の方ではないもう一人の妻・深芳野の子である斎藤義龍が家督を継承。

小見の方の子が家督を継がなかったということは、男子を生むことができなかったのでしょうか。

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