斎藤喜平次

父親の斎藤道三/wikipediaより引用

斎藤家

道三の三男・斎藤喜平次もまた暗殺~なぜ兄の義龍は凶行に走ったか

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
斎藤喜平次
をクリックお願いします。

 

見舞いに訪れた孫四郎と喜平次を殺害。

その旨を道三に知らせ、父との決別を明確に示しました。

なお、この「孫四郎と喜平次の殺害」については、史料によって方法がまちまちです。

仮病と称して見舞いに呼び寄せたとか、宴を理由に二人を招いたとか。

実際の殺害を行ったのは義龍の寵臣であった日根野弘就の単独行動だったとも、あるいはもう一人の家臣・長井隼人正との共犯であったなど……。

いずれにしても、共通しているのは

「義龍の意向によって孫四郎と喜平次の殺害が計画された」

「二人の殺害が成功した」

という点です。この点については、おおむね史実と考えても良さそうです。

しかしながら、近年の研究によって「確かに孫四郎は殺されたが、喜平次は殺されずに生き残った」という説も浮上してきました。

あくまで仮説の一種であり、やや強引な主張に思えなくもないですが、最後にご紹介しておきます。

 

喜平次と彼の弟とされる斎藤利堯は同一人物?

「喜平次生存説」とは?

喜平次と別人だとされてきた弟の「斎藤利堯(としたか)が同一人物である」という主張です。

彼に限らず武将の生存説は無数に考えられるので「いちいち検討する必要があるの?」と思われるかもしれません。

同説は、江戸時代中期に成立した『美濃明細記』という史料で、「喜平次が『玄蕃(利堯の通称)』を名乗ったという記載がある点に着目しており、一応の根拠はあります。

加えて「喜平次が死んだ」ことを証明できる一次史料が残されていないので、可能性として否定することはできません。

この斎藤利堯という人物は稲葉一鉄の甥とされます。

稲葉一鉄(稲葉良通)
信長に寝返った美濃三人衆・稲葉一鉄は生涯74年でどんな働きをしたか

続きを見る

斎藤道三が討たれると、彼の親戚である織田信長のもとへ落ち延びていきました。

その後は織田家臣の一員として活躍し、【本能寺の変】後に岐阜城を占拠したともされます。

要は、美濃衆の一角として力を有していたのでしょう。

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は

続きを見る

仮に利堯と喜平次が同一人物であれば、彼は斎藤家が滅亡したのちも美濃で生き延びていたことになります。

ただ……。

 

『美濃明細記』は二次史料ゆえに

ロマンを壊すようで恐縮ですが、「喜平次生存説」には多くの反論材料があります。

そもそも「通称」が同じだからといって、必ずしも同一人物であったと言い切ることはできません。

例えば今回の場合は「玄蕃」(律令制の機関に由来する「官途名」)が同じだったわけですが、当時の社会には広く浸透している名称であり、別人でも被ることがないとは言い切れません。

また『美濃明細記』以外の史料は共通して「二人が殺害された」と記述している点も見逃せません。

仮に『美濃明細記』が第一級の史料であれば話も違ってきますが、あくまで江戸時代中期に成立した二次史料に過ぎません。ほかの全史料と矛盾する記述を信じるほどの裏付けがないのです。

現状の情報から判断するに、やはり喜平次は孫四郎と同じタイミングで殺害されたと考える方が自然でしょう。

今後、彼の生存を示す史料が出てきたら、そのとき結論が変わる――それぐらいで考えていた方が良さそうです。

あわせて読みたい関連記事

斎藤道三
斎藤道三は如何にして成り上がったか? マムシと呼ばれた戦国大名63年の生涯

続きを見る

斎藤孫四郎
道三の次男・斎藤孫四郎はなぜ兄の義龍に殺された?骨肉の家督争い

続きを見る

斎藤義龍
信長に刺客を放った斎藤義龍はマムシの息子~美濃を支配した生涯33年

続きを見る

稲葉一鉄(稲葉良通)
信長に寝返った美濃三人衆・稲葉一鉄は生涯74年でどんな働きをしたか

続きを見る

斎藤龍興
織田軍に国を追われた斎藤龍興が信長にネチネチ反撃~26年の生涯

続きを見る

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は

続きを見る

織田信長
史実の織田信長はどんな人物?麒麟がくる・どうする家康との違いは?

続きを見る

文:とーじん

【参考文献】
『美濃国諸旧記』
『美濃明細記』
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon
木下聡『美濃斎藤氏 (論集 戦国大名と国衆)』(→amazon

TOPページへ

 



-斎藤家
-

×