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【天正壬午の乱】
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北は上杉、東は北条、そして南から徳川
1582年、織田家による甲州征伐で武田勝頼が自害。
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そしてその直後に起きた【本能寺の変】で、それまでの戦略はすべてが無に帰してしまいました。
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昌幸はここから周辺大国への従属と離反を繰り返します。
北に上杉景勝、東に北条氏政&北条氏直父子、南には新たに侵入してきた徳川家康。
真田家は、数カ国を領する大国たちに囲まれてしまったのです。
大国に挟まれた小領主が生き残るには、隣接する大国のどれにも属しつつ、どれにも属さないという、一見、矛盾した立ち場で「緩衝地帯」として見なされることが重要です。
ネックとなるのは、上杉、北条、徳川いずれの国も、大国であるがゆえ国境線が広範囲に渡っていることでした。
以下の地図をご覧ください。
赤の真田が、上杉(紫)、北条(青)、徳川(緑)に囲まれているのが一目瞭然でしょう。
マップに刺されたポイントはいずれも城です。
彼等大国の係争地はここだけではありません。
上杉景勝は、織田信長が死んだとはいえ越中を奪った柴田勝家や佐々成政と睨み合いを続けており、徳川家康と北条父子は駿河で国境を接しつつ、織田軍団が逃げて空白地となった甲斐や信濃を巡って争っている最中です。
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ここに真田の上田が係争地に加わると、大国の戦線がさらに拡大して、お互い最悪な多方面作戦を強いられてしまいます。
兵力は集中させてこそ大国規模のメリットが出てきます。
上田に兵を割く余裕があるくらいなら別の方面に回したいのです。
もちろん真田家を支配下に置けば、東山道の交通を支配し、他国に対して優位に立つことができるのですが、同時に大国同士で直に隣接&衝突し、そこから消耗戦へ突入してしまうリスクも発生します。
そのような状況を真田昌幸は理解して利用します。
天正壬午の乱とは、まさにそうした状況を踏まえての争いなのです。
大国同士の衝突は回避したい思惑
昌幸は、大国同士がリスクを避けるため『川中島の戦いのような正面衝突はない』と仮定したでしょう。
そこで隣接する大国すべてと誼みを通じ、
【真田を完全支配して得られるメリットよりは少ないが、大国同士の衝突は避けられるというメリット】
を作り出すことに成功しました。
当時、上田で砥石城を本拠にしていた昌幸は、まず上杉に降りました。織田軍団が美濃へ逃走した後、最初に川中島の海津城まで南下してきた上杉家に従属を誓い、上田の領有を認めてもらったのです。
ここまでの流れは、さほど大変なことではありません。
もともと北信濃(川中島四郡)は越後との関係が強く、武田信玄に追放された北信濃国人衆も多数、上杉家で保護されていました。
また上杉謙信の時代には、北信濃を越後との緩衝地帯として保持するため、完全領土化を目指す武田信玄と川中島で争っていました。
織田家が消滅して、空白地帯になった北信濃に上杉家が軍を動かすことは越後の安全保障上、同然の成り行きで、昌幸も上杉家の従属下にいることで上田の領土が保障されたのです。
しかし、この直後に北条氏政、氏直父子が軍を動かしてきたことから、一気に緊張感が高まっていきます。というのも……。
北上してきた北条は【神流川の戦い】で織田家の滝川一益を破り、敗走する織田軍団を追撃しながら信濃に侵入していたのです。
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そこで真田はどうしたか?
天正壬午の乱における見どころの一つ。
なんと昌幸は、あっさり北条家へ鞍替えしてしまうのです。
まさに大国の侵攻に飲み込まれた感じですが、これも昌幸は「川中島で上杉との全面衝突はない」と考えての鞍替えです。
真田昌幸が更に斜め上を行ってるのは、北条家に臣従することの見返りに、織田家に奪われた沼田の領有も北条家にちゃっかり約束させていることです。
北条家にしてみれば上田だけでなく沼田も真田家に任せることで、上杉家と国境を接するリスクを避け、コストのかかる戦を回避できれば安いものでした。
上杉と北条の間でユラユラ揺れる沼田の運命
結局、上杉vs北条の川中島の戦いは、両軍激突とはならず幻となりました。
まさに昌幸の読み通り。
上杉が川中島四郡、北条家が沼田を支配下に置くことで和議が成立したのです。
川中島4郡には上田も含まれていますが、真田の領地は侵さないという条件が加わっていますので、これで昌幸も一安心……と行きたいところですが「沼田は北条家」という文言が気になりますよね。
この後、北条氏政、北条氏直父子は、沼田城に北条家の家臣を入れ、一見、真田家との共同保有のようにしてしまいます。
しかし『いずれ奪ってやろう!』という野心を北条が抱いていたことに、腹黒さで定評のある昌幸が気づかないはずがありません。
昌幸は、ここで再び上杉家に鞍替えすることもできました。
が、上杉家には、和議がなったばかりの北条家を再び敵に回すほどの余力はありません。
すでに上杉家は川中島四郡と引き換えに沼田を放棄していますので、もしも真田家が北条を裏切って対決することになっても、沼田の防衛に上杉が力を貸してくれるかどうか確信が持てないのです。
沼田を保持したい昌幸にとって上杉家に鞍替えすることは、沼田を北条家の総攻撃にさらすことは非常にリスクが大きい。
しかし、このまま北条方に留まるとしても、北条家が上杉家の攻勢に後詰するどころか、沼田城をなし崩し的に奪いにくる可能性の方が高い。
このピンチに昌幸は第三極を創り出します。
徳川家康です。
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上田城 当初は上杉の攻撃に備えて築かれた
徳川家は、武田の旧領を積極的に傘下に収めながら信濃を北上。西進してきた北条家とは信濃や甲斐でぶつかり合っています。
徳川方1万の兵力に対し、北条方は4万以上の大軍勢です。
兵数的には圧倒的に不利な状況ながら、徳川は各地で果敢に迎え撃ち、甲斐の新府城で北条を迎え撃った一戦では北条家が戦を回避するという失態があり、さらに甲斐東部では北条方をついに破り、昌幸の周辺でも徐々に徳川方の勢いが優位になってきます。
この勝ち馬に乗るべし!
真田昌幸はあっさり北条方を見限り、徳川方に従属を申し入れました。
徳川家にとっては真田家からの申し入れは上田だけでなく沼田まで支配下に置くことになるので、対北条家で非常に有利になります。
真田昌幸にとっても徳川家に従属することで、対上杉家でも確実に約束できる後詰めを得ることができます。
上杉vs真田であれば国力に差があり過ぎて、あっさり攻め込まれてしまいますが、上杉vs徳川ともなれば大国同士の消耗戦になり、上杉も迂闊に手を出せなくなります。
徳川家にとっても北条家と各地で睨み合っていますし、西方では羽柴秀吉(豊臣秀吉)に備えなければならず、二正面作戦は避けたいところ。
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積極的に上杉を攻撃する意思まではないでしょう。
結局のところ、上杉も徳川も、真田を温存させることが上策となるのです。
このような大国に挟まれて駆け引きをしている時期に真田昌幸は上田城の築城に着手しました。
上杉が積極的に攻めてこない状況とはいえ、目と鼻の先の葛尾城まで迫っていますので、まずは上杉家の侵攻を想定した城にしなくてはなりません。
これが最初の上田城のコンセプトになります。
しかも徳川家から資金援助を受けていたのが本当に抜け目のないところです。
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