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【天正壬午の乱】
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川近の城が押さえるべきポイントはこれだ!
では何故、真田の上田城が、この地に築城されなければならなかったのか?
河岸段丘があって土地や飲み水が確保さえて来れれば、城なんてどこでもいい……わけありませんね。
上田の地には東山道が東西に通っていました。
上野国から山を越えて上田に至り、松本を通過して、さらに山を越えて美濃、近江に出る道です。現代で言えば、群馬県から長野、岐阜を通過して滋賀(そして京都)へ至るルートですね。
また南北には善光寺方面へ向かう善光寺街道が通っていました。
江戸時代に中山道が整備され、上田よりも南を通過するようにはなりましたが、松本から上田に至る道は「保福寺街道」として、江戸時代の松本藩主が参勤交代の道として活用しております。
何が言いたいか?
というと、上田城周辺は古代より街道の交差地点として、人の往来が盛んだったということです。
国分寺も置かれるほどでした。
また、上田には千曲川の浅瀬を比較的安全に渡れる「渡し」もあったと云われています。
街道と街道が交わるクロスロードと「渡し」を支配することは、その地域の物流から人の流れ、情報までコントロールできますので、為政者なら必ずその地に「要害を構えて侵されない」城郭化を施します。
これぞ「築城のお約束」です。
ですから上田城の近辺にも、きっと「渡し」があるに違いない――そう目を凝らして地図上を探したところ、やはりありました。
現在の上田市には千曲川の両岸を結ぶ「古舟橋」という橋が架けられています。
字面でピンときますよね。橋なのに古舟……そうです、ここに千曲川の「渡し」がありました。
昔は流れの激しい千曲川に橋を架ける技術はなく、軍事的にも敵の進軍を容易にする恒久的な橋を架けることはありません。往来者は僅かな浅瀬を舟で渡河していたのです。
この「渡し」が、ちょうど上田城の外郭の直下にありました。
真田昌幸が上方の情報をいち早くキャッチしてコントロールできたのは、街道が交わる上田の地を支配下に置いていたからであり、街道や渡しを物理的にコントロールできる地に築城することでさらに統制を強化することができました。
ポイントは3つです。
【上田城3つのポイント】
・河岸段丘を利用
・街道
・渡河ポイント
真田上田城は河岸段丘を天然の要害として城に取り込みつつ、街道と渡河ポイントを押さえた、川沿いの城の定石通りだったことは間違いなさそうです。
では次に、真田上田城の縄張りを、築城当時の情勢から探ってみたいと思います。
ここからが【天正壬午の乱】の本編とも言えます。
大変おまたせしました。
北は上杉、東は北条、そして南から徳川
1582年、織田家による甲州征伐で武田勝頼が自害。
武田家が滅亡すると、真田昌幸は織田信長の配下になります。
そしてその直後に起きた【本能寺の変】で、それまでの戦略はすべてが無に帰してしまいました。
昌幸はここから周辺大国への従属と離反を繰り返します。
北に上杉景勝、東に北条氏政&北条氏直父子、南には新たに侵入してきた徳川家康。
真田家は、数カ国を領する大国たちに囲まれてしまったのです。
大国に挟まれた小領主が生き残るには、隣接する大国のどれにも属しつつ、どれにも属さないという、一見、矛盾した立ち場で「緩衝地帯」として見なされることが重要です。
ネックとなるのは、上杉、北条、徳川いずれの国も、大国であるがゆえ国境線が広範囲に渡っていることでした。
以下の地図をご覧ください。
赤の真田が、上杉(紫)、北条(青)、徳川(緑)に囲まれているのが一目瞭然でしょう。
マップに刺されたポイントはいずれも城です。
彼等大国の係争地はここだけではありません。
上杉景勝は、織田信長が死んだとはいえ越中を奪った柴田勝家や佐々成政と睨み合いを続けており、徳川家康と北条父子は駿河で国境を接しつつ、織田軍団が逃げて空白地となった甲斐や信濃を巡って争っている最中です。
ここに真田の上田が係争地に加わると、大国の戦線がさらに拡大して、お互い最悪な多方面作戦を強いられてしまいます。
兵力は集中させてこそ大国規模のメリットが出てきます。
上田に兵を割く余裕があるくらいなら別の方面に回したいのです。
もちろん真田家を支配下に置けば、東山道の交通を支配し、他国に対して優位に立つことができるのですが、同時に大国同士で直に隣接&衝突し、そこから消耗戦へ突入してしまうリスクも発生します。
そのような状況を真田昌幸は理解して利用します。
天正壬午の乱とは、まさにそうした状況を踏まえての争いなのです。
大国同士の衝突は回避したい思惑
昌幸は、大国同士がリスクを避けるため『川中島の戦いのような正面衝突はない』と仮定したでしょう。
そこで隣接する大国すべてと誼みを通じ、
【真田を完全支配して得られるメリットよりは少ないが、大国同士の衝突は避けられるというメリット】
を作り出すことに成功しました。
当時、上田で砥石城を本拠にしていた昌幸は、まず上杉に降りました。
織田軍団が美濃へ逃走した後、最初に川中島の海津城まで南下してきた上杉家に従属を誓い、上田の領有を認めてもらったのです。
ここまでの流れは、さほど大変なことではありません。
もともと北信濃(川中島四郡)は越後との関係が強く、武田信玄に追放された北信濃国人衆も多数、上杉家で保護されていました。
また上杉謙信の時代には、北信濃を越後との緩衝地帯として保持するため、完全領土化を目指す武田信玄と川中島で争っていました。
織田家が消滅して、空白地帯になった北信濃に上杉家が軍を動かすことは越後の安全保障上、同然の成り行きで、昌幸も上杉家の従属下にいることで上田の領土が保障されたのです。
しかし、この直後に北条氏政、氏直父子が軍を動かしてきたことから、一気に緊張感が高まっていきます。
というのも、北上してきた北条は【神流川の戦い】で織田家の滝川一益を破り、敗走する織田軍団を追撃しながら信濃に侵入していたのです。
そこで真田はどうしたか?
天正壬午の乱における見どころの一つ。
なんと昌幸は、あっさり北条家へ鞍替えしてしまうのです。
まさに大国の侵攻に飲み込まれた感じですが、これも昌幸は「川中島で上杉との全面衝突はない」と考えての鞍替えです。
真田昌幸が更に斜め上を行ってるのは、北条家に臣従することの見返りに、織田家に奪われた沼田の領有も北条家にちゃっかり約束させていることです。
北条家にしてみれば上田だけでなく沼田も真田家に任せることで、上杉家と国境を接するリスクを避け、コストのかかる戦を回避できれば安いものでした。
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