天正10年10月29日(1582年11月14日)は徳川家康と北条氏直が和睦し、天正壬午の乱が終結した日です。
旧武田領をめぐり上杉・徳川・北条の大国が奪い合った争いですが、そのど真ん中には小国・真田もいました。
当時の当主だった真田昌幸が、上杉、北条、徳川相手にコロコロと立場を変え「表裏比興の者」と称されたことでも知られる大きな戦乱。
一つ間違えれば真田家が滅ぼされかねない状況で、昌幸は非常にクレバーかつアグレッシブな戦略でついには生き残ります。
真田と徳川による上田合戦でも知られる上田城も、この戦乱の最中に作られたもの。
後に、真田信之が大名として生き残れたのも、真田信繁(幸村)が大坂の陣で名を馳せたのも、この過酷な天正壬午の乱を生き抜いたからにほかなりません。
果たして真田は、三つの大国を相手に、どうやって家名を守ったのか?

真田昌幸/wikipediaより引用
上田城の特性を把握しながら、この大きな戦乱を振り返ってみましょう。
上田城 築城当時の様子は地形から読み取れる
実は、現在の上田城は真田昌幸の手によるものではありません。
漫画『センゴク』でもお馴染み仙石秀久の息子・忠政の統治時代に大改築されてしまったのです。
どのような城だったのか、という当時の記録も少なく、往年の姿はほとんど分かっていません。
しかし、ご安心ください。
天正壬午の乱の最中に真田昌幸が築城し、その後、二度も徳川方を退けた史実は間違いなくこの地に存在します。
たとえ当時の縄張りは失われていても、現代でも変わらない上田の地形が色々なことを教えてくれます。
戦国の城は、自然の地形を活かして作られているからこそ、縄張りが失われても推測できる事実が多々あり、それを探っていくのも城マニアの喜び。
早速、本題へと参りますと、上田城は千曲川沿いの崖(尼が淵)と、河岸段丘の地形を取り込んで造られた崖城です。
河岸段丘とは、タモリ倶楽部でときどき登場しますね。
河岸段丘の典型例としてよく注目される群馬県沼田市の河岸段丘・赤みを帯びている部分ほど高度が高くなる/Wikipediaより引用
平地面と崖のような急斜面が交互に連なった土地のことであり、上田城でも当然その特長を利用。
ただし、この城が真田昌幸によるエポックメーキングな城だったかというと、そうでもありません。
昌幸が参考にできたであろう多数の前例があり、昌幸本人が確実に訪れたことのある城だけに絞っても、3つの城を挙げることができます。
1つ目は武田信玄の腹心である山本勘助によって築城されたという「海津城」。
現在の「松代城」です。
海津城は武田信玄の時代、川中島を実効支配するための城として、千曲川を挟んで川中島の対岸の地に築かれました。
千曲川の大河を天然の水堀として築城された平城です。
信濃の北部ですので完全に内陸地ではありますが、海の船着き場や渡し場のように見えたので「海津」の名が付いたと云われています。
「海も見たことないくせに!」というより、海を見たことがないからこそのネーミングだったのでしょう。
現在は松代城にその名残りを残しつつ、千曲川の流れは上田市同様に大きく変わりましたので、残念ながら当時の威容は拝めません。
『甲陽軍鑑』には激戦だった第4回の川中島の戦いに、真田昌幸が15歳で初陣していたとの記述がありながら、史実的な詳細は不明です。
ただし、その頃の昌幸が武田信玄の近習として仕えていたことは確か。
となれば本陣にお供していても不自然ではありませんし、海津城築城時の詳細を信玄と勘助の会話から聞き知っていたことは間違いないでしょう。
謙信が越後以外で初めて直轄化した「沼田城」
2つ目は西上野(現在の群馬県)の「沼田城」です。
この城は蓮根川と片品川、そして坂東太郎の異名を持つ暴れ川・利根川によって三方を削られた台地の河岸段丘を利用した崖城でした。
沼田城は、関東管領に就任した上杉謙信が、越後から関東に入る拠点として、謙信が初めて越後以外で直轄化した城でした。
越後と北関東、そして北信濃を結ぶ要衝の地にあり、領国を拡大しなかったことで有名な謙信でさえも押さえてしまいたくなるほど、沼田城が戦略的にも軍事的にも重要な城だということが分かります。
沼田は非常に広大な台地ですので、天然の要害であったばかりではなく、大軍の集合地点として理想的な場所でした。
また、謙信は、この沼田城を拠点として、浅間山の北周りで侵攻できる軍用道路も整備しました。これによって、何かと行軍の障害となる利根川を渡らずに、下野国(現在の栃木県)の佐野あたりまで進軍することを可能にしたのです。
守ってよし、攻めてよし――沼田城は、まるで航空母艦のような城でした。
しかし、それだけ大事な城ですから、当然、争いも起きます。
沼田城は、謙信没後に起こった上杉家の内紛【御館の乱】のドサクサに紛れて、北条家に奪取されます。

上杉景勝/wikipediaより引用
関東を治める北条家にとっても沼田の地が諸勢力の関東への侵入を阻むための最重要拠点だったことが分かりますね。
沼田城が北条家のものになった後、今度は武田勝頼と上杉景勝が手を組み、武田家臣の真田昌幸が沼田城を攻略しました。
川の流れや河岸段丘の巨体な崖を利用した城は非常に攻めにくい――。
昌幸も、このときはそう強く感じたに違いありません。
彼は無理攻めせず、父の真田幸綱(真田幸隆)が堅城・砥石城を調略だけで奪ったときと同じように、調略で要害堅固の沼田城を奪いました。
さすがの手腕です。
表裏比興なだけではありません。
というか表裏比興な内面を自覚しているからこそ、人の心の動きに敏感だったのかも……。
勝頼の拠り所になるハズだった新府城は昌幸が縄張り
3つ目は真田昌幸自身が縄張りしたと伝わる甲斐の「新府城」です。
新府城は、武田勝頼が甲府の躑躅ヶ崎館から居城を移した武田家最後の居城です。
この新府城は、釜無川と塩川の侵食で出来た「七里岩」と呼ばれる巨大な屏風岩の上に築かれた城。
甲州流築城術を組み合わせて、さらなる要害化に成功します。
昌幸が築城に携わり、わずかな期間ではありますが滞在していたことは間違いありません。
このように上田城築城以前にも川沿いの城は数多く存在しています。
真田昌幸自身も海津城は守備側として、沼田城は攻城側として、そして新府城は築城に関わりましたので、これらの前例をすべて盛り込むようにして上田城を築城したことは十分に考えられます。
上田城が真田昌幸の独創的な発想によるものでなくとも、先例を研究し、自分のものにして実践に応用する能力こそ昌幸の真骨頂ではないでしょうか。
川近の城が押さえるべきポイントはこれだ!
では何故、真田の上田城が、この地に築城されなければならなかったのか?
河岸段丘があって土地や飲み水が確保さえて来れれば、城なんてどこでもいい……わけありませんね。
上田の地には東山道が東西に通っていました。
上野国から山を越えて上田に至り、松本を通過して、さらに山を越えて美濃、近江に出る道です。現代で言えば、群馬県から長野、岐阜を通過して滋賀(そして京都)へ至るルートですね。
また南北には善光寺方面へ向かう善光寺街道が通っていました。
江戸時代に中山道が整備され、上田よりも南を通過するようにはなりましたが、松本から上田に至る道は「保福寺街道」として、江戸時代の松本藩主が参勤交代の道として活用しております。
何が言いたいか?
というと、上田城周辺は古代より街道の交差地点として、人の往来が盛んだったということです。
国分寺も置かれるほどでした。
また、上田には千曲川の浅瀬を比較的安全に渡れる「渡し」もあったと云われています。
街道と街道が交わるクロスロードと「渡し」を支配することは、その地域の物流から人の流れ、情報までコントロールできますので、為政者なら必ずその地に「要害を構えて侵されない」城郭化を施します。
これぞ「築城のお約束」です。
ですから上田城の近辺にも、きっと「渡し」があるに違いない――そう目を凝らして地図上を探したところ、やはりありました。
現在の上田市には千曲川の両岸を結ぶ「古舟橋」という橋が架けられています。
字面でピンときますよね。橋なのに古舟……そうです、ここに千曲川の「渡し」がありました。
昔は流れの激しい千曲川に橋を架ける技術はなく、軍事的にも敵の進軍を容易にする恒久的な橋を架けることはありません。往来者は僅かな浅瀬を舟で渡河していたのです。
この「渡し」が、ちょうど上田城の外郭の直下にありました。
真田昌幸が上方の情報をいち早くキャッチしてコントロールできたのは、街道が交わる上田の地を支配下に置いていたからであり、街道や渡しを物理的にコントロールできる地に築城することでさらに統制を強化することができました。
ポイントは3つです。
【上田城3つのポイント】
・河岸段丘を利用
・街道
・渡河ポイント
真田上田城は河岸段丘を天然の要害として城に取り込みつつ、街道と渡河ポイントを押さえた、川沿いの城の定石通りだったことは間違いなさそうです。
では次に、真田上田城の縄張りを、築城当時の情勢から探ってみたいと思います。
ここからが【天正壬午の乱】の本編とも言えます。
大変おまたせしました。
北は上杉、東は北条、そして南から徳川
1582年、織田家による甲州征伐で武田勝頼が自害。
武田家が滅亡すると、真田昌幸は織田信長の配下になります。
そしてその直後に起きた【本能寺の変】で、それまでの戦略はすべてが無に帰してしまいました。

織田信長(左)と明智光秀/wikipediaより引用
昌幸はここから周辺大国への従属と離反を繰り返します。
北に上杉景勝、東に北条氏政&北条氏直父子、南には新たに侵入してきた徳川家康。
真田家は、数カ国を領する大国たちに囲まれてしまったのです。
大国に挟まれた小領主が生き残るには、隣接する大国のどれにも属しつつ、どれにも属さないという、一見、矛盾した立ち場で「緩衝地帯」として見なされることが重要です。
ネックとなるのは、上杉、北条、徳川いずれの国も、大国であるがゆえ国境線が広範囲に渡っていることでした。
以下の地図をご覧ください。
赤の真田が、上杉(紫)、北条(青)、徳川(緑)に囲まれているのが一目瞭然でしょう。
マップに刺されたポイントはいずれも城です。
彼等大国の係争地はここだけではありません。
上杉景勝は、織田信長が死んだとはいえ越中を奪った柴田勝家や佐々成政と睨み合いを続けており、徳川家康と北条父子は駿河で国境を接しつつ、織田軍団が逃げて空白地となった甲斐や信濃を巡って争っている最中です。
ここに真田の上田が係争地に加わると、大国の戦線がさらに拡大して、お互い最悪な多方面作戦を強いられてしまいます。
兵力は集中させてこそ大国規模のメリットが出てきます。
上田に兵を割く余裕があるくらいなら別の方面に回したいのです。
もちろん真田家を支配下に置けば、東山道の交通を支配し、他国に対して優位に立つことができるのですが、同時に大国同士で直に隣接&衝突し、そこから消耗戦へ突入してしまうリスクも発生します。
そのような状況を真田昌幸は理解して利用します。
天正壬午の乱とは、まさにそうした状況を踏まえての争いなのです。
大国同士の衝突は回避したい思惑
昌幸は、大国同士がリスクを避けるため『川中島の戦いのような正面衝突はない』と仮定したでしょう。
そこで隣接する大国すべてと誼みを通じ、
【真田を完全支配して得られるメリットよりは少ないが、大国同士の衝突は避けられるというメリット】
を作り出すことに成功しました。
当時、上田で砥石城を本拠にしていた昌幸は、まず上杉に降りました。
織田軍団が美濃へ逃走した後、最初に川中島の海津城まで南下してきた上杉家に従属を誓い、上田の領有を認めてもらったのです。
ここまでの流れは、さほど大変なことではありません。
もともと北信濃(川中島四郡)は越後との関係が強く、武田信玄に追放された北信濃国人衆も多数、上杉家で保護されていました。
また上杉謙信の時代には、北信濃を越後との緩衝地帯として保持するため、完全領土化を目指す武田信玄と川中島で争っていました。
織田家が消滅して、空白地帯になった北信濃に上杉家が軍を動かすことは越後の安全保障上、同然の成り行きで、昌幸も上杉家の従属下にいることで上田の領土が保障されたのです。
しかし、この直後に北条氏政、氏直父子が軍を動かしてきたことから、一気に緊張感が高まっていきます。

北条氏政/wikipediaより引用
というのも、北上してきた北条は【神流川の戦い】で織田家の滝川一益を破り、敗走する織田軍団を追撃しながら信濃に侵入していたのです。
そこで真田はどうしたか?
天正壬午の乱における見どころの一つ。
なんと昌幸は、あっさり北条家へ鞍替えしてしまうのです。
まさに大国の侵攻に飲み込まれた感じですが、これも昌幸は「川中島で上杉との全面衝突はない」と考えての鞍替えです。
真田昌幸が更に斜め上を行ってるのは、北条家に臣従することの見返りに、織田家に奪われた沼田の領有も北条家にちゃっかり約束させていることです。
北条家にしてみれば上田だけでなく沼田も真田家に任せることで、上杉家と国境を接するリスクを避け、コストのかかる戦を回避できれば安いものでした。
上杉と北条の間でユラユラ揺れる沼田の運命
結局、上杉vs北条の川中島の戦いは、両軍激突とはならず幻となりました。
まさに昌幸の読み通り。
上杉が川中島四郡、北条家が沼田を支配下に置くことで和議が成立したのです。
川中島4郡には上田も含まれていますが、真田の領地は侵さないという条件が加わっていますので、これで昌幸も一安心……と行きたいところですが「沼田は北条家」という文言が気になりますよね。
この後、北条氏政、北条氏直父子は、沼田城に北条家の家臣を入れ、一見、真田家との共同保有のようにしてしまいます。
しかし『いずれ奪ってやろう!』という野心を北条が抱いていたことに、腹黒さで定評のある昌幸が気づかないはずがありません。
昌幸は、ここで再び上杉家に鞍替えすることもできました。
が、上杉家には、和議がなったばかりの北条家を再び敵に回すほどの余力はありません。
すでに上杉家は川中島四郡と引き換えに沼田を放棄していますので、もしも真田家が北条を裏切って対決することになっても、沼田の防衛に上杉が力を貸してくれるかどうか確信が持てないのです。
沼田を保持したい昌幸にとって上杉家に鞍替えすることは、沼田を北条家の総攻撃にさらすことは非常にリスクが大きい。
しかし、このまま北条方に留まるとしても、北条家が上杉家の攻勢に後詰するどころか、沼田城をなし崩し的に奪いにくる可能性の方が高い。
このピンチに昌幸は第三極を創り出します。
徳川家康です。

徳川家康/wikipediaより引用
上田城 当初は上杉の攻撃に備えて築かれた
徳川家は、武田の旧領を積極的に傘下に収めながら信濃を北上。西進してきた北条家とは信濃や甲斐でぶつかり合っています。
徳川方1万の兵力に対し、北条方は4万以上の大軍勢です。
兵数的には圧倒的に不利な状況ながら、徳川は各地で果敢に迎え撃ち、甲斐の新府城で北条を迎え撃った一戦では北条家が戦を回避するという失態があり、さらに甲斐東部では北条方をついに破り、昌幸の周辺でも徐々に徳川方の勢いが優位になってきます。
この勝ち馬に乗るべし!
真田昌幸はあっさり北条方を見限り、徳川方に従属を申し入れました。
徳川家にとっては真田家からの申し入れは上田だけでなく沼田まで支配下に置くことになるので、対北条家で非常に有利になります。
真田昌幸にとっても徳川家に従属することで、対上杉家でも確実に約束できる後詰めを得ることができます。
上杉vs真田であれば国力に差があり過ぎて、あっさり攻め込まれてしまいますが、上杉vs徳川ともなれば大国同士の消耗戦になり、上杉も迂闊に手を出せなくなります。
徳川家にとっても北条家と各地で睨み合っていますし、西方では羽柴秀吉(豊臣秀吉)に備えなければならず、二正面作戦は避けたいところ。
積極的に上杉を攻撃する意思まではないでしょう。
結局のところ、上杉も徳川も、真田を温存させることが上策となるのです。
このような大国に挟まれて駆け引きをしている時期に真田昌幸は上田城の築城に着手しました。
上杉が積極的に攻めてこない状況とはいえ、目と鼻の先の葛尾城まで迫っていますので、まずは上杉家の侵攻を想定した城にしなくてはなりません。
これが最初の上田城のコンセプトになります。
しかも徳川家から資金援助を受けていたのが本当に抜け目のないところです。
対上杉を想定した北側の防備を堅く
上田城は、徳川家の資金援助だけでなく、徳川家家臣・大久保忠世などに築城の手助けを受け、短期間の突貫工事で築城されたと云われています。
北信濃最前線の城として、対上杉家の拠点に定めたのです。
現在の上田城は大手門が東側を向いています。
しかし、今では陸上競技場になってしまっている上田城の北側を流れる外郭の水路は東から西へ引き込まれ、人工的に直角に南へと流れを変えて、千曲川の古舟の渡しの横を流れていきます。
海津城のように、城自体が巨大な馬出型の縄張りで上田城の戦闘正面は、北の街道を向いています。
現在の上田城でもその名残は残っていますね。

真田昌幸時代の上田城古図(上田市デジタルアーカイブポータルサイトより)
一方、城の東側は、今とは違い、多数の沼によって守られていました。
沼と沼が水路でつながれることによって水堀の役割を担い、軍の直進的な侵攻を阻んでいたことが予想されます。
これこそが対上杉家を想定した上田城初期の縄張りでした。
上杉方も黙っちゃいない 北に砦群を築き上田城に対抗
上田の町は、沼地が点在する東側の方が標高が高く、西に向かってなだらかに下がっていく地形です。
千曲川の南側は、広い川幅と高い崖で阻まれ、そもそも攻城に向いていませんし、渡河ポイントも押さえられているので渡ることすらできません。
ここに徳川方の後詰めが東の高台から加勢すれば、勇猛な上杉家と言えども、甚大な被害が予想されます。
対する上杉方は、葛尾城を中心に、上田城の北部・虚空蔵山の山上の尾根沿いに多数の砦群を築き、山全体を城郭化して上田城を威嚇します。
このように真田昌幸の上田城は、縄張りの段階で「vs上杉家」、主に北西からの攻撃を想定して築城されていました。
ちなみにこの時点で、上田城という呼称はなく、築城当時は「伊勢崎城」と呼ばれていました。
上田城として名前が定着するのは第二次上田合戦の前からです。しかしややこしいので、ここでは上田城で統一しておきますね。
昌幸の意に反し徳川と北条は和議をチョイス
さて、気がつけば真田昌幸が徳川方に味方しているという裏切りに北条父子は焦ります。
これは西上野の沼田が徳川方になってしまったことを意味します。
北条家にとっては徳川家に背後へ回られた形となり、俄然不利な状況になってしまいました。
当然、北条父子は昌幸の離反を許さず沼田城を攻めます。昌幸は上杉家を裏切ってまで回避したはずの北条家による沼田攻めを、今回はなぜ回避しようとしなかったのでしょうか。
実は前回と今回で情勢が大きく変わっています。
最初に上杉家に従属した時は、北条家が織田家の西上野へ全軍を投入し、その地を勝ち取った直後でした。
勢いに乗った北条家の主力部隊によって、沼田城が総攻撃を受ける可能性があったのです。
しかしその後の北条家は、対上杉の川中島や、対徳川家の新府城攻めにおいて、軍の勢いと圧倒的兵力差があったにも関わらず、終始、消極的な采配に留まっており、大国同士の激突を回避したがっている様子が明らかです。
真田と戦うのと、上杉や徳川とぶつかるのでは、まるで意味が異なります。
またその段階での北条家の主力は、上野ではなく甲斐や信濃の徳川家に向いておりました。
沼田城攻略に向けられるのは北条家の軍団は別働部隊に過ぎず、それであれば沼田城は持ちこたえると昌幸は判断したと思われます。

北条氏直/wikipediaより引用
実際、沼田城攻めに来たのは北条家の別働隊であり、昌幸は難なく攻撃を退けました。
しかし、です。
大国の狭間でうまく沼田城を守ったかにみえた矢先、今度も昌幸の手の届かないところで政治力が働いてしまいました。
北条家と徳川家が和睦をしてしまったのです。
彼等は、甲斐、信濃を徳川家に、沼田領を北条家にすることで和議が成立させてしまいます。
むろん昌幸は
「沼田は自ら切り取ったのであって徳川家に与えられたものではない。もう徳川家の言うことなんて聞いてられるか!!」
と激しく抵抗。
思えばここから真田昌幸の反徳川体制が始まったと考えられます。
そして徳川と第一次上田合戦(1585年)へと発展するのです。
なお、北条家との間に起きた沼田城問題は、後に北条家が豊臣秀吉に潰されるキッカケとなる【名胡桃城強奪事件】にまで発展します。
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しかしそれは単なる侮蔑を超越し、昌幸の覚悟の凄まじさに慄いたゆえの言葉であるとは思いませんか。
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