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【真田昌幸】
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武田家はもはや滅びゆく運命であったのです。
『真田丸』第一回のタイトルは「船出」。
主君の滅亡とは、大損害であり打撃でしたが、国衆である真田一族にとっては、新たな旅立ちとも言えたのです。
武田家宿老から、徳川、上杉、北条の狭間で揺れる木の葉のように、されど表裏比興でどんな苦境も生き抜いて見せる――。
戦国国衆のサバイバルが幕を開けるのでした。
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「天正壬午の乱」始まる
天正10年(1582年)3月。
武田勝頼とその妻子の自刃によって、武田家は滅亡しました。
それに先んじて、昌幸は手を打っていました。
勝頼の許可を得ながら、時には国衆を調略成敗しながら、手にしてきた沼田領。そこを抑えながら、北条氏邦と交わした書状のやりとりが見られます。
武田のあとは北条につく――そんな保険をかけていたのですね。
その一方で、武田氏直臣に所領を分け与え、彼らも忠義を誓うような動きが見られ始めます。
主君の許可なしに所領を与えることは、もはや独立勢力になっていたということ。
『信長の野望』で例えますと、もう昌幸の所領は武田領と別の色に染まりつつある、というところでしょう。
そんな中で、織田勢も武田領に攻め入り、国衆や家臣の調略を進めていました。
滝川一益が箕輪城に入り、睨みを利かせ始めるわけです。
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昌幸は、一益に人質を差し出すこととしました。
・河原氏(母)
・弁丸(二男・のちの真田信繁)
という2名です。
昌幸は武田の後は北条、そして織田への従属を選び、自領の確保と生き残りをはかったのです。
いくら昌幸だって、まさかその少し後に、本能寺の変が起き、織田信長が討ち果たされることなんて予想できるはずがなかったでしょう。
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しかも西では羽柴秀吉(豊臣秀吉)が怒涛の中国大返しを見せ、天下人を目指すわけです。
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東国、しかも混沌のど真ん中ともいえる旧武田領で、北条と向き合っていた一益に、そんな芸当ができるはずもありません。
箕輪城を出た一益は、北条勢と神流川の戦い(神流川合戦)でぶつかり、兵力差もあって敗北。
こうなると、昌幸が一益の指示を仰いでいるわけにもいかなくなります。一益からは人質の母・河原氏と二男・弁丸も返還されました。
ただ、ここで、この二人がすんなりと昌幸の元に戻ったわけではありません。
国衆の木曾義昌が確保していたのです。
混沌を経て、一益は、茨の道である旧武田領を西進しました。昌幸としては、本能寺後における東国地方の混沌を、泳いで行くほかありません。
沼田領・吾妻領の国衆たちに朱印状を発給して足場を固めつつ、今度は上杉に付くことを決めまます。
そして6月末までには、上杉氏に従属を果たしています。
しかし、7月9日までには北条への従属も確認できます。
一体何がどうなっているのか?
これも、国衆であるということが大きいものです。
近隣の室賀氏・屋代氏は、北条氏への従属を選んでいました。
『真田丸』で「黙れ小童ぁ!」という決め台詞を発していた室賀正武を思い出していただければと思います。
上杉に従属したにせよ、こうした近隣の国衆から離反されたら自身の身は危うくなります。
話が混乱してきましたでしょうか?
そうなりますよね。
さらにややこしいことに、昌幸の実弟・加津野昌春は上杉方についています。
彼は『真田丸』では、真田信尹(のぶただ)で統一されておりました。
信尹はいったん兄と共に上杉にはついたものの、兄と同じく北条にはつかず、そのまま上杉にとどまっていたのです。
北条か。上杉か。これだけでも十分ややこしいのに、ここで第三の男が登場します。
徳川家康です。
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徳川としても、明智光秀の討伐が叶えば、天下取りにグンと近づくことができる。
しかし、大軍を率いて、光秀と対峙するまでの道程を通過するのは至難の技。
家康は、むしろ旧武田領と家臣の取り込みを積極的に進めることにより、先々を有利に進めようと考えました。
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となれば甲斐で武田領を吸収しようとする徳川と北条の激突は、不可避であります。
この武田領をめぐるサバイバルは、のちの天下形成においても重要な役割を果たすのでした。
頭が混乱しますが、醍醐味でもあるところですので、地道に話を進めたいと思います。
家康との因縁が始まる
織田の同盟相手であった徳川。
しかし、その織田政権後継者を決める「清洲会議」では、存在を無視されているような印象があります。
映画『清洲会議』でも徳川の出番はありませんでした。
だからといって、家康を無視したとも思えません。
・徳川は織田との同盟者
・武田攻めには徳川が参加している
・上杉と北条牽制のためにも、武田領は徳川がいただく
そういう同意があったとしてもおかしくはありません。武田滅亡以来、徳川は土地のみならず人の取り込みも、熱心に行なっているのです。
とはいえ、織田勢の傘下から抜けきっていないからには、彼自身が積極的に攻めるわけにもいきません。
「織田勢力のために武田を得るのだ!」という大義名分が欲しい。
織田政権後継者である羽柴秀吉(豊臣秀吉)にとって、家康の存在は悩ましいものでした。
正面切って敵対するのは困ります。
家康が上杉と北条を抑えていれば、秀吉が西へと進むこともできる。
そこで清洲会議があった6月の翌7月に秀吉は、家康の甲斐・信濃・上野3カ国の領有を認めたのです。
注意したいのは、こういう場合は許可が先で、実効攻略は後であるということ。
「この国を支配してもよいですよ。ただし、あなたが手にしたらね」という条件なのです。
結果、家康は北条と火花を散らし、旧武田領を自力で得なければならなくなりました。
今後どこまで躍進できるか――それは、武田領の取り込みにかかっている。家康の踏ん張りどころは、まさにここなのです。
そしてそんな中、昌幸の母である河原氏と二男・弁丸は、家康についた木曾義昌を経て、家康の元へと送られておりました。
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『真田丸』では、このときの信繁=16歳説を採用しておりましたが、作劇上の都合で、史実では幼名ということから13歳説が有力ではないかとされています。
さて、昌幸はどうするのか。
吾妻・沼田の支配を固めつつ、決断の時が迫っておりました。
そしてこの9月には、徳川従属を決めるのです。上杉から追放されていた実弟・信尹、国衆の芦田依田信蕃らが、説得にあたったとされています。
これを受けて家康は、上杉方にも昌幸保護を依頼しました。
時代の流れからしてそんなものか……。
人質もいるし、実弟の説得もあったことだし――と考えたくもなりますが、よくわからない点もあります。
昌幸は、9月に徳川従属を決めながら、10月まで非公開でした。北条がいるからには、そう簡単に所属変更を明らかにはできないのです。
北条としては、まず徳川第一であり、真田は後回しという認識ではあります。
しかし、それがいつ覆り、自領が攻撃されるともわかりません。
それでも北条と敵対したからには、北条領にある祢津・沼田攻撃を開始します。バックには徳川がいるし、昌幸としては当然のことなのですが……。
ここで、真田にとっては理不尽かつ予想外の事態が起こります。
10月、織田政権の織田信雄・織田信孝から、徳川と北条和睦の方針が出されたのです。
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続いて北条氏直と家康の女・督姫の婚礼が決定。
武田領をめぐる【天正壬午の乱】が、ついに終息へ向かうこととなるのでした。
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ここでの徳川・北条間の交渉で「沼田領問題」が持ち上がります。
【旧武田領の帰属】
甲斐:徳川
信濃:徳川
上野:北条
昌幸の吾妻領・沼田領は上野にありました。
要は、この両地方を取り上げられて、北条に渡す――と頭越しに決められたようなものです。
徳川には、油断があったのかもしれません。
たとえ強引な取り決めでも、国衆ごときは泣き寝入りするしかない。そう考えてもおかしくはないところです。
しかし、昌幸は違いました。
北条側から、吾妻領・沼田領引き渡しを求められると、これを拒否。とれるもんなら力づくでやってみろ。そんな流れです。
それだけではなく、北条領への武力攻略を進めていたのですから、クソ度胸にも程があります。
かくして、吾妻領・沼田領は、さながら火薬庫状態になりつつあったのでした。
因縁の上田城
真田一族は、まるで嵐に翻弄される小舟のようだ――。
『真田丸』では、そんな喩えが使われておりました。
気持ちはわかります。
徳川、北条、上杉の間で、真田一族は翻弄されているのです……と、言いたいところですが、これをまるでサーファー気分でエキサイティングに乗り切る姿を描いたところが、あのドラマの魅力です。
天正11年(1583年)春には、昌幸母・河原氏を徳川の人質としました。
しかも家康自らが甲府に来ると、昌幸自身が出仕をしているのです。
完全に徳川についたとみなせる動きでしょう。
こうした中で昌幸は、徳川の支援を受け、新拠点となる城・海士淵城(のちに改名して上田城)を築き始めました。
上杉に睨みを利かせるための城でした。
徳川としては、昌幸から小県領を取り上げ、北条に引き渡さねばなりません。
そのお詫びとみなせますし、自分の新たなる味方に太っ腹なところを見せたかったのかもしれません。少なくとも、そこには好意があるでしょう。
この徳川の気持ちも、色々と重要かもしれません。
心理的な要素を考えすぎますと、歴史を誤ってとらえてしまいかねませんが。
ここで、なんだかおかしな動きが出てきます。
夏になると、沼田城代・矢沢頼綱(幸綱の弟・昌幸の叔父)が、上杉に従属するのです。
この動きを、昌幸から切り離せるとは思えません。
親族ですし、真田一族の宿老なのです。
季節が秋に変わる頃、天下はまたも動き始めます。
春に柴田勝家を滅ぼし、天下人として着実に力を増しつつあった秀吉が、信州の混乱をおさめようとするのです。
【信州郡割】でした。
・徳川と上杉は和睦する
・徳川と上杉の領土を決めるのは、秀吉である
この統制は、秀吉に服属するかどうかを判断するものでもありました。
秀吉への服属によって、自分の領土や地位を確定させる。そういうチャンスがあることを、当時の大名や国衆は把握していたものです。
平たく言えば外交です。交渉が重要な時代になりつつありました。
「関東惣無事」が、この事態を表す言葉としては適切……と思いたいところですが、このあたりがどうにも難しく、当時ですら混沌としていたことがわかります。
織田方の大名である家康は天正12年(1584年)、織田信雄と手を組んで、秀吉と合戦「小牧・長久手の戦い」に及んでいるのです。
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「惣無事」が本来はなかった、誤りという説もあるほどです。
しかし、当時だからこそ混沌としておりました。なんせ理想と現実の食い違いが大きく当事者すら迷っていたのです。
後世の戦国ファンから見ても、なんだかわからくなっても無理のないところでしょう。
理想としては、もう合戦で決着をつけたくない。
しかし現実はそうもいかない。
混沌と曖昧がある状況ということで、とりあえず話を進めましょう。
第三の選択肢は上杉
天正13年(1585年)、昌幸は上杉への従属を決めました。
・北条が自領とその周辺を攻撃してくる
・徳川は「沼田領を北条に渡すから、よこしなさい」と言ってくる
そんな状況です。
大事な領地を渡さなければならない――となれば第三のチョイスである上杉になるわけです。整理すると納得できるかもしれませんが、徳川からすれば、もうわけがわからない状態です。
上杉には人質として、次男・真田信繁が送られました。
彼の運命の鍵は、こうしたところにもあるものです。
さすがに徳川としても、もう黙っているわけにはいかなくなりました。
そして……。
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