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【戦国島津名将伝】新納忠元は薩摩一有能で猛将で泣かせる忠臣だった

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秀吉に向かい「何度でも敵になってみせましょう」

一方で、秀吉に従うことは最後まで是とせず、主の義久が降伏してようやく矛を収めました。

「自分の意見が異なっていたとしても、主の判断に従う」

まさに家臣の鑑ですね。

盲従すればいいというものでもありませんが、義久は後に徳川家康から「大将の鑑」と評された逸話があるほどの判断力の持ち主ですから、忠元も従おうと思ったのでしょう。

しかも降伏後に秀吉から「まだワシと戦う気は持っておるのか?」と問われたところ、「島津義久様が立ち上がるなら何度でも敵になってみせましょう」と返答しています。

この手のヤリトリ、大好物なのは秀吉だけじゃなく薩摩武士たちにも刺さったようで、後に語り草となっています。

まぁ、自分が一介の武士だとしたら「こんな人についていきたい!」と思わせるようなセリフですよね。実際についていったら「ただ一直線に斬り進め!」と言われて戦慄してしまいそうですが。

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なお、新納は知名度の割に知行(領地)も少なかったようで、秀吉から引き抜きのお誘いがありましたが、これも断っています。

ますます薩摩隼人の心を惹きつけたことでしょう。

幕末の西郷隆盛西郷従道、あるいは大久保利通など。

金銭欲にあまり興味を示さない(というかむしろ遠ざける)姿勢というのは、この辺りからの伝統もありそうですよね。

 

意外! 和歌が得意だったとは

義久や義弘も忠元の忠義をよく理解しており、【文禄・慶長の役】や【関が原の戦い】のときには、国元で留守居を任せています。

関ヶ原から【島津の退き口】で義弘が帰ってきた後は、加藤清正が攻めてくると聞き、急いで居城の大口城(現・鹿児島県伊佐市)に戻ったとか。

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ここは清正の本拠である熊本城と、薩摩の中心へ向かう道の途中にあります。

忠元は文字通り、我が身を盾にして主家を守ろうという気迫で向かったのでしょう。かっちょいい。

慶長十五年に忠元が危篤になったとき、義久や義弘はもちろん、「悪い方の家久」こと島津忠恒も回復を願ったというから、歴代の主に心から信頼されていたことがうかがえます。

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忠元はこのように、忠義ぶりと戦上手ぶりを伝える逸話が多いのですが、もう一つ特徴があります。

戦国武将には珍しく和歌を好んでおり、和歌に関する逸話が多いのです。

伊達家など、他にも鎌倉以来続いている家で和歌をよくしたところはありますが、家臣レベルで歌が得意という人はあまり見かけませんよね。

「陣中に火縄の明かりで古今和歌集を読んでいた」とか、「細川藤孝細川幽斎)を始め、他の武将と即興で合作した」といった話がたくさんあります。

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大口城に戻ったときの話では、「一から十までの数え歌を作り、それを兵に唱和させて士気を上げた」とか。

鬨の声を上げさせる武将は多いですが、和歌で鼓舞した武将はかなり珍しいでしょうね。

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