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【新納忠元】
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意外! 和歌が得意だったとは
義久や義弘も忠元の忠義をよく理解しており、【文禄・慶長の役】や【関が原の戦い】のときには、国元で留守居を任せています。
関ヶ原から【島津の退き口】で義弘が帰ってきた後は、加藤清正が攻めてくると聞き、急いで居城の大口城(現・鹿児島県伊佐市)に戻ったとか。
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ここは清正の本拠である熊本城と、薩摩の中心へ向かう道の途中にあります。
忠元は文字通り、我が身を盾にして主家を守ろうという気迫で向かったのでしょう。かっちょいい。
慶長十五年に忠元が危篤になったとき、義久や義弘はもちろん、「悪い方の家久」こと島津忠恒も回復を願ったというから、歴代の主に心から信頼されていたことがうかがえます。
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忠元はこのように、忠義ぶりと戦上手ぶりを伝える逸話が多いのですが、もう一つ特徴があります。
戦国武将には珍しく和歌を好んでおり、和歌に関する逸話が多いのです。
伊達家など、他にも鎌倉以来続いている家で和歌をよくしたところはありますが、家臣レベルで歌が得意という人はあまり見かけませんよね。
「陣中に火縄の明かりで古今和歌集を読んでいた」とか、「細川藤孝(細川幽斎)を始め、他の武将と即興で合作した」といった話がたくさんあります。
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大口城に戻ったときの話では、「一から十までの数え歌を作り、それを兵に唱和させて士気を上げた」とか。
鬨の声を上げさせる武将は多いですが、和歌で鼓舞した武将はかなり珍しいでしょうね。
「新納様の霊をお祀りして、ご加護をお願いしよう」
そして妻に先立たれたときの歌がまた泣けます。
「さぞな春 つれなき老いと 思ふらむ 今年も花の のちに残れば」
【意訳】春はわしをさぞ、”風情のない老人だ”と思っているだろう。今年もまた、花が散る季節まで生き残ってしまったから
「つれなき」は「連れ合い(妻)がいない」、そして「花」は妻という意味にも取れ、技巧と心情が合わさった名歌です。
夫婦仲に関するエピソードは特にないようなのですが、きっと共白髪(ともしらが)が似合うような、素敵な夫婦だったんでしょうね。
これだけ出来た人なので、江戸時代になっても地元では非常に慕われていました。
天保の頃(だいたい1840年代)に、大口城の近くの伊佐七ヶ郷というあたりで「いつまで経ってもこの辺は豊かにならない……新納様の霊をこの地にお祀りして、ご加護をお願いしよう」と、藩に忠元を祀る神社を作る許可を取ったことがあります。
これが現存する忠元神社です。
忠元のお墓は別の場所に、妻とともに建てられていたので、そこから分霊したのだとか。
もしかしたら、忠元の霊にとって妻の隣のお墓が自宅のようなもので、忠元神社は職場のようなものなのかもしれません。
ご利益については特に限定されていないようですけれども、忠元の生涯からすると、職場や家庭での円満をもたらしてくれそうですね。
もちろん、当人の努力も大切ですが。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
栄村顕久『島津四兄弟―義久、義弘、歳久、家久の戦い―』(→amazon)
新納忠元/wikipedia
やまとうた(→link)
鹿児島県神社庁(→link)