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【二条新御所と誠仁親王】
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また、御所が火災に見舞われた場合など、皇族が別の場所に仮住まいすることがあります。
誠仁親王が即位した後の有事に備えて屋敷を作っておき、信長が整備や住み心地の確認などを済ませておいて献上した……ということも、ありえなくはないかと思います。
信長には、いざとなればいくらでも屋敷を建てられる資金がありますが、当時の朝廷は何かと手元不如意。事あるごとに資金や物資を融通してくれる信長は、かなり頼りになる存在だったでしょう。
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むろん、朝廷や公家との親睦は、織田家にとってもメリットが大きいものでした。
例えば「官位」も朝廷オフィシャルで動かすことができ、世間の評判も上がり、屋敷のひとつやふたつくらいポーンとあげてしまっても大した出費ではなかったはずです。
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次世代の意思疎通をはかった?
そして誠仁親王へ屋敷を献上したもう一つの理由――それは、織田信忠と誠仁親王の連絡をスムーズにさせたことではないでしょうか。
信長にしても既に信忠へ家督を譲っています。これまで信長が定宿としていた妙覚寺を、信忠が使うことも増えるはずです。
となると、二条御新造に誠仁親王がいれば、次世代の二人が連絡もしやすくなるはず。
二人は年齢も近いため、普段から親しくしていれば、今後の政治などで連携を取りやすくなると考えたような気がします。
前述の通り、二条御新造は後に【本能寺の変】で信忠終焉の地となった場所でもあります。
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変の当日、信忠は妙覚寺に宿泊していました。二条御新造とはすぐそばの位置です。
信忠は、信長の救援に行けないことを家臣に聞かされ、「ならば宮様をお助けしなければ」と考えたのでしょう。
直ちに妙覚寺から二条御新造に移動し、村井貞勝に明智軍と交渉させ、誠仁親王や女房・公家たちを逃したといわれています。
信忠が二条御新造に移ったのは、妙覚寺よりも防衛機能に優れていたから、という理由もあったようですが、こうしたことから信忠と誠仁親王の関係は悪くなかったとも思われます。
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信長公記をはじめから読みたい方は→◆信長公記
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon)
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon)
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon)
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峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)