佐々成政と前田利家を率いた柴田勝家が越中へ攻め入り、滝川一益は甲斐から関東へ。
丹羽長秀が神戸信孝(織田信長の三男)と四国討伐の準備を進める頃、備中高松城の水攻めに腐心していたのは羽柴秀吉。
文字通り織田家の名だたる武将たちが全国の方面軍を鼓舞する最中、織田信長は京に入り、自らの中国出陣の準備を進めていた。
秀吉から対毛利の援軍要請があり、間もなく安土城からやってくる本陣を率いる予定だった。
ところが!
このとき信長、ひいては日ノ本大名の運命が一変す――。
京付近にいたのは信長だけではなく、羽柴援軍を務めるために編成された明智光秀軍も同様。
その数、実に13,000であった……。
天意
◆実際の所、そんな劇的な言葉が発せられたかどうかは不明。
史料によると光秀は4~5名の重臣にだけ意を告げていたとされます。それは以下のようなメンツでした。
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襲撃
◆「是非もなし(しかたない!)」
太田牛一さんの「信長公記」によると、本能寺から逃げてきた女官に聞いたセリフとのこと。
真偽の程はともかく、死ぬ間際に敦盛を舞ったというのは、あくまで映画やドラマでの逸話でしょう……。
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