伏見城

徳川時代の伏見城/wikipediaより引用

秀吉が亡くなり家康が将軍宣下を受けた伏見城は知られざる重要拠点

豊臣秀吉の城といえば大坂城

徳川家康の城といえば江戸城。

では秀吉も家康も、共に重要視した城と言えば?

当然ながらその候補はいくつかありますが、実際に政治の舞台で大活躍したのが伏見城でしょう。

え?ずいぶんと地味な城だな?

と思われるかもしれませんが、伏見城を舐めてはいけません。

なにせ秀吉は晩年をここで過ごして亡くなっているばかりか、関ヶ原の戦い前哨戦では鳥居元忠が籠城して西軍相手に壮絶な討死を果たし、その後、政権を握る徳川家康は、この城で将軍宣下を受けたのです。

そればかりか徳川秀忠徳川家光も先例にならって伏見城で将軍宣下を受けるなど、戦国末期から江戸初期にかけて非常に重要な拠点となっていました。

では一体なぜ伏見城にそこまでの権威権力が集中したのか?

秀吉~家康の事績を追いながら、当時を振り返ってみましょう。

 


茶々の懐妊で政権の計画が全て狂う

そもそも豊臣秀吉は、京都の伏見に自身の隠居屋敷を作る予定でした。

関白の位を甥の豊臣秀次に譲り、朝鮮出兵を始め、

「大金ぶっ込んで名護屋城を築城したばかりじゃないのか?」

というツッコミも入れたくなりますが、天下人の財布はこれしきのことでは揺らぎません。

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隠居屋敷は当初、京都の南方、今では埋め立てられて存在しない「巨椋池(おぐらいけ)」を臨む指月(しげつ)の丘に定められました。

秀吉は、城郭ではなく、本当に隠居屋敷を造ろうとしていたらしく、平安時代から景観の素晴らしさを歌にも詠まれた指月を指定したのです。

ゆえに軍事的な意味は全くありません。

しかしこの頃、秀吉の老後計画をすべてひっくり返すような出来事が起こります。

側室の茶々がまたしても懐妊し、お拾(おひろい・後の豊臣秀頼)を産んだのです。

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秀吉に子が産まれたことで、「ぜ~んぶ秀次に譲ってワシゃ隠居するわ!」宣言は、実質、撤回されてゆくことになりました。

 


引退撤回! 新たに城を築くんじゃ

豊臣家の持つ各城の役割は、まずは中心に「大坂城」があります。

さらにはプライベートな居城として、京都のど真ん中に「聚楽第(じゅらくだい)」を築城。

豊臣政権の城として、朝廷との政治の場にもしました。

お拾が生まれる前は、大坂の豊臣家も京都の豊臣政権も関白の秀次に任せ、秀吉自身は「伏見」で気ままな隠居生活という計画だったのです。

しかし事態は一変、秀吉は宣言します。

「大坂城は、お拾に譲る!」

「え? え? オレの立場は?」

動揺したのは秀次です。

明らかにその場繋ぎの中継ぎ投手に降格され、本人は絶望したことでしょう。

しかし、秀吉にしてみれば「ワシの子がワシの大坂城を継いで何が悪い! 生前贈与じゃ!」と、自分が生きているうちに筋道を作っておかなければならないと考えます。

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同様に、お拾のためには豊臣政権をより一層盤石なものにしておかなくてはなりません。

そこで秀吉は、引退撤回宣言を内外に知らしめるよう、伏見で築城を開始。

惣無事令が出され、天下統一されているとはいえ、現役復帰するからには天下人にふさわしい「城郭」を目論みました。

かくして伏見の隠居屋敷は、当初の計画を変更して巨大城郭へと変貌を遂げていくこととなるのです。

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