信玄の妻

武田信玄/wikipediaより引用

武田・上杉家

武田信玄には何人の妻がいたか?上杉の方から油川夫人までの全まとめ

武田信玄の妻と言えば三条夫人

京都からやってきた公家の娘で、高慢ちきな性格から、美女で有名だった信玄の側室・諏訪御料人に対して酷い扱いをする――。

かつての戦国作品ではこのような描写がよく見られましたが、実は誤解を生じかねない描き方でした。

京都に人脈を持つ三条夫人は信玄の戦略に欠かせない存在だったと考えられるし、そもそも初婚の相手は彼女ではありません。

また、三条夫人と諏訪御料人ばかりが目立ってしまうため、他の側室が脚光を浴びる機会が減り、『信玄ほどの英雄なら色を好んだだろう』という漠然とした認識が広がっている状況とも考えられます。

いったい信玄には何人の妻がいて、どんな存在だったのか?

振り返ってみましょう。

※信玄とは出家後の法名ですが、本稿ではこの名で統一します

 


上杉夫人(上杉朝興の娘)

武田信玄にとっての初婚は、天文2年(1533年)のこと。

大永元年(1521年)生まれですので、現代ならば中学生という年齢でした。

相手は意外かもしれませんが、扇谷上杉家当主・上杉朝興の娘です。

関東で勢力争いを繰り広げる上杉と手を組んだのですね。

しかし同年代であったこの妻は、天文3年(1534年)の出産時に母子ともに亡くなってしまいます。

骨盤が発達しない十代での妊娠は危険で死亡率が高い。彼女もその不幸な例だったのでしょう。

 


三条夫人(三条公頼の娘)

それから2年後の天文5年(1536年)、信玄は元服します。

室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜って武田晴信となり、従五位下・大膳大夫に叙位・任官されています。

大名の嫡男に相応しい元服であり、このとき左大臣・三条公頼の娘である三条夫人が嫁いできたのです。

花婿と同年の彼女は、摂関家に次ぐ清華七家に列する転法輪三条家の出身、まさにお姫様。

彼女と共に京都からやってきた侍女たちにより、甲斐に雅な文化が吹き込まれたことでしょう。

母方の血が濃く、家臣たちから学問は程々にして欲しいとまで言われた信玄。

そんな彼にとって『源氏物語』など、王朝の文化を伝えてくる妻には知的好奇心も刺激されたはずです。

天文7年(1538年)には男子・太郎(のちの武田義信)も生まれ、正室としての務めを果たし、この後も多くの子を産んでいます。

武田義信

海野信親

武田信之

黄梅院北条氏政室)

見性院(穴山信君室)

真竜院(真里姫?・木曽義昌室・母には諸説あり)

ただし残念ながら、彼女を母とする男子は全員が母に先立ち、家督を継ぐことはありませんでした。

北条との同盟のために嫁いだ黄梅院も母より先に、若くして亡くなっています。

そして、嫡男・義信の死より遅れること3年、夫・信玄に先立つこと3年、元亀元年(1570年)に没します。享年50。

三条夫人はフィクションで割を食うことが多い人物です。

武田信玄の“物語”におけるヒロインが諏訪御料人にされがちで、彼女はそれに嫉妬する高慢で冷酷な女性として描かれることが定着していました。

義信が家督を継がなかったことも影響しているのでしょう。

名僧である快川紹喜は、彼女の葬儀で詠んでいます。

「五十年間法輪を転ず 涅槃菊に先立つ紫 金身三条の銀燭霊山の涙 愁殺す西方の一美人」

西方から甲斐に来た、信心深いその心根までも美しい女性の姿が、そこにあります。心優しく、穏やかで、周囲から慕われる女性であったのです。

京都から嫁いできた縁も、武田家にとって重要な要素です。甲斐と京には人脈という接点も生まれました。

武田に仕えた真田昌幸が、京都出身の山手殿を妻に迎えたのも、そうしたつてがあってのものでしょう。

三条夫人
三条夫人(武田信玄の正室)は本当に高慢ちきな公家の姫だったのか?

続きを見る

 


諏訪御料人(諏訪頼重の娘)

各地の時代祭りとは、その土地の歴史観が反映されます。

例えば米沢市の「米沢上杉まつり」では、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちが名物。

むろん、川中島から米沢は遠く、そもそも藩祖は上杉謙信ではなく上杉景勝ではないのか?という疑念も湧きますが、それだけ上杉謙信と武田信玄は存在感があるのでしょう。

そして信玄に関連して、フィクションでの扱いが大きい人物といえば、この諏訪御料人です。

甲府青年会議所が開催するミスコンテストは「湖衣姫コンテスト」であります。新田次郎の小説『武田信玄』での諏訪御料人の名を冠しているのです。

それほどまでに甲府を代表する薄幸の美女として有名なのが諏訪御料人。

そんな彼女は諏訪氏に生まれました。

諏訪氏は諏訪大社の祭祀を司る大祝家で、その惣領家が武士を束ねるようになり、代々、諏訪を治めてきました。

戦乱の世の中、5代諏訪頼重は武田信虎と対立します。その後、和睦し、信虎の娘・禰々(ねね)を娶ると、諏訪と武田の間に平和が訪れました。

しかし、信虎が追放され、信玄が家督を継ぐとこの均衡は壊れます。

信玄は頼重を攻めて捕縛、甲府に連行し、東光寺に押し込めたのです。

わが屍は諏訪湖に沈めよ――そう言い残し、頼重は命を絶ちますが、その頼重には「かくれなき美人」と評される14歳の娘がいました。

信玄は彼女に目をつけ、室として迎え入れようとします。

しかし、いくらなんでも敵方の女を……と重臣たちが苦い顔をしたところで、賛同に回ったのが山本勘助とされます。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-武田・上杉家
-

×