武田信繁

武田信繁(歌川国芳・作)/wikipediaより引用

武田・上杉家

信玄の実弟・武田信繁は理想の補佐役武将か~川中島に散った“古典厩”の生涯

戦国ゲーム『信長の野望』で甲斐・武田家を選ぶ場合、絶対に欠かせない武将を一人挙げるとすれば?

多くの方が、信玄の弟・武田信繁を選ぶのではないでしょうか。

合戦能力が高いだけでなく、政治や外交もこなし、決して裏切ることなく武田家を支えてくれる。

まさに万能武将の代表といった印象ですが、むろん、こうしたイメージはあくまでゲームや漫画での話。

実際のところ武田信繁という武将はどんな人物だったのか?

どんな事績があるのか?

永禄4年(1561年)9月10日はその命日。

本記事で、信繁の生涯を振り返ってみましょう。

 


父・信虎から将来を嘱望された次郎

大永5年(1525年)某日、甲斐を治める武田信虎と大井夫人との間に“次男”が生まれました。

長男である後の武田信玄は、その4年前の大永元年(1521年)に生誕。

つまりこの兄弟は父母ともに同じであり、二番目の男子は「次郎」と名付けられました。

武田信繁です。

戦国ゲームでも人気の武将であり、ドラマや漫画などのフィクションでは、この弟が描かれるとき定番の手法があります。

父の信虎に偏愛されるシーンです。

兄の信玄が理不尽なまでに虐げられる一方、弟は父から溺愛され、しまいには「家督相続も弟に!」などと信虎が言い始める。

それでも、聡明な弟は兄を慕い、武田家を支えていく――。

そんな展開ですが、こうした話は信玄が父の信虎を追放したことを正当化する、脚色の可能性が否定できません。

ややこしいのは、弟の信繁が、史実でも聡明かつ人格者であったことでしょう。

大河ドラマや『信長の野望』シリーズの顔グラフィックでも、兄よりも癖がなく、生真面目そうな佇まいが定番。

それでいて甲冑は兄に似せられる場合が多く、「理想の補佐役」として描かれる。

いざとなれば兄の代わりに矢面に立つ、そんな覚悟を持つ人物像でした。

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典厩様こそ まことの副将よ

武田信繁は「典厩(てんきゅう)」という呼び名でも知られます。

典厩とは一体なんのことなのか?

そこで参考にしたいのが大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。その劇中で「武衛(ぶえい)」という呼び方が話題になったのを覚えていらっしゃいますか?

源頼朝を「佐殿(すけどの)」と呼ぶことに抵抗がある上総広常に対し、三浦義村が「ならば、武衛(ぶえい)はどうだ? 友達という意味があるぞ」と提案したシーンです。

広常は、義村の助言を信じ、頼朝に「武衛」と語りかけ、ついには「みんな武衛だ!」とワイワイ言い始める。

しかし、これは義村による「嘘も方便」でした。

実は「佐殿」も「武衛」も同じ意味で「将軍」となる。

かつて河内源氏・源義朝の三男である源頼朝は、平治元年(1159年)平治の乱に際し、右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)という官位に就いていました。

わずか15日で役を解かれ、伊豆へ流されてしまいますが、当時の坂東武者にとっては都からの貴公子であり、彼を崇める周囲は「右兵衛権佐」を意味する「佐殿」と呼びかけた。

この「佐殿」の「唐名」(とうみょう)が「武衛」なのです。

日本は律令国家の建設にあたり、当時、世界最大の大帝国だった「唐」を参照にしていて、官位名についても唐に倣い「唐名」をつけました。

つまりあの「武衛」という表現は、上総広常の無教養、三浦義村の狡猾さ、そして日本史における呼び方など、多くの要素を描いた秀逸な描写と言えるのです。

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話を武田信繁に戻しまして。

前述の通り、信繁には「典厩(てんきゅう)」という、よく知られた呼び名があります。

この「典厩」とは何なのか?

というと「左馬頭(さまのかみ)」の「唐名」にあたります。

左馬頭とは朝廷で厩(うまや)を管理する役目。

名門武家の武田家にふさわしい官名であり、かつ武田家中の教養も感じさせる。

孫子』から「風林火山」を引用し、旗印にしていた家にふさわしい呼び名と言えましょう。

信繁は『武田信繁家訓』99ヶ条を残しており、『甲州法度之次第』を補うものと見なされています。

・主君への忠義

・礼儀作法

・文武に親しむこと

・神仏への向き合い方

・人付き合いの方法

などなど、きめ細やかに記されていたばかりでなく、文中には、四書五経をはじめとする漢籍引用も数多あります。

つまり同書には優れた教養があり、江戸時代になっても読み継がれたため、同時に武田信繁の人柄も賞賛の的となりました。

現代において人気が高いのも、元はと言えば江戸時代から続く影響なのでしょう。

そもそも武田家には信玄だけでなく、山本勘助など伝説的な人物が数多いて、徳川家康からも崇敬されるような武家でした。

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優れた人柄や教養が武士の鑑とされた武田信繁も、そうした武将の一人だったのです。

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