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【宇佐美定満(定行)】
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政景の父・房長が少々アレな人だったため、その頃のイメージが重なって、政景やその配下の上田衆の待遇も、良いとはいえないものになってしまったのです。
しかし、政景は「一度帰順したからには……」と気分を切り替え、謙信に忠実に仕えました。
家中の混乱に愛想を尽かし、再び出家しようとする謙信を説得して引き止めたり、春日山城の留守を預かったり、信頼も勝ち得ていったのです。
また、政景の正室は謙信の姉・仙桃院であり、夫婦仲が良かったことで、息子である景勝にはあまり悪影響が残らなかったようです。
義理の兄ということで、謙信も多少なりとも心強かったでしょう。
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溺死の原因は諸説入り乱れ
溺死事件のもう一人の当事者・宇佐美定満(定行とも)は、藤原南家の末裔とされる家柄の人です。こちらは先祖代々、越後守護上杉家に仕えてきた家でした。
定満は延徳元年(1489年)生まれなので、大永六年(1526年)生まれの政景とは40歳近く離れていることになりますね。
溺死事件の1564年は御年75歳のご老体です。
定満については「天文の乱がらみのドタバタの際、誰の味方についていたのか」「いつ頃隠居したのか」について諸説入り乱れていて、どんな人だかはっきりしない面もあります。
最終的に晴景、次いで謙信に仕え、政景が降伏する際にも功績があったといわれていますので、重臣であることには変わりないのですが。
まとめると、政景と定満は「仲良しではないが、遺恨があってもおかしくはない」という感じの間柄だったことになります。
この日二人が溺死した件についても、諸説入り乱れています。
「二人が酒に酔った状態で舟遊びをしていたために、うっかり足を滑らせた」
「定満が捨て身で政景を暗殺した」
「他の上杉家臣による政景謀殺に、定満が巻き込まれた」
このあたりが主な説ですね。
三つめだったら老人を粗末にしすぎやろ。
野尻湖説が有力 他にも数カ所候補あり
実は事件が起きた場所も確定していません。
定満の領していた琵琶島城の浮かぶ野尻湖という説が有力ですが、他にも数カ所の候補があります。定満の墓が琵琶島城址、政景の墓が野尻湖近隣の真光寺にあるからでしょうか。
政景の墓については、
「最初は野尻湖の湖畔に墓が作られたが、その前を馬で通るとやたらと落馬する」
ことから移転した……という伝説があります。怖すぎ。
また、定満にはこの事件に先立つ永禄五年(1562年)に、北条氏との戦で戦死した説もあります。
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その場合、政景と一緒に溺死したのは別の人物ということになりますね。
何にせよ「主従や衆道関係でもない相手と(結果的に)心中」というのは実にイヤな話です。
時代的に、衆道絡みのいざこざが原因であってもおかしくはありませんが、その辺を深く勘ぐるとキリがなくなりますのでやめておきましょう。
「ワシの命に変えても邪魔者の政景を」
政景の息子・景勝は当時8歳。
戦国の世で父を亡くした武家の息子が安穏に暮らせるはずもなく、上杉謙信の養子となって生き延びることになります。
そして【御館の乱】に打ち勝ち、戦国をなんとか生き延びて現代に続くわけです。
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もしも定満のねらいが政景や上田長尾氏の勢力を削ぐことだったとしたら、むしろ逆効果になってしまっていますね。
定満が何を考えていたのかは本人のみぞ知るところですが、ひとつ仮説を立ててみましょう。
謙信はこの事件から11年前=天文二十二年(1553年)に、村上家という別の家から養子を迎えています。
山浦国清(後に景国と改名)という人で、謙信の養女と結婚していたため、実質的には婿養子=跡継ぎ第一候補です。
それを見て、定満が「これでお家は安泰! 後はワシの命に変えても、邪魔者の政景を取り除かねば!」と忠義を燃やしていた……なんてのはありそうです。
定満にとって計算外だったのは、謙信がその後も景勝ら養子を迎え続けたこと、最期まで跡継ぎをはっきり決めなかったことかもしれません。
ちなみに、国清はその後別の家を継いだために山浦姓となりました。
謙信没後の御館の乱では景勝側につきましたが、【小田原征伐】に参加した後の行方はわかっていません。これまたモヤモヤしますね。
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野尻湖には、定満を供養した塚がある琵琶島へ渡れる定期船があるので、ここが事件現場だったとしたら、ごく近くまで行けることになります。
周辺に宿泊施設が数か所あるようですし、この辺に泊まって事件の真相を考察するのも一興になりそうです。
歴史作家さんが行ったら、何かしらインスピレーションがわいたりして。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
長尾政景/wikipedia
宇佐美定満/wikipedia