『信玄と謙信、いったい勝者はどちらなのか?』
川中島で5度(諸説あり)もぶつかりながら、結局どちらの首もとったりとられたりしてないから、引き分けでいいんじゃない?
そう結論づけられると確かにそうかもしれないが、ここでは合戦以外での対決についても考慮してみたい。
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まずは官位争いを見てみましょう
2人が争った北信濃――この土地は結局、武田信玄が制している。
ゆえに信玄の勝ち!
武田家ファンならそう答えるだろう。
しかし、江戸時代まで家を存続させているのは上杉家ではないか。
だから謙信様の勝ち!
上杉ファンや直江兼続ファンはそう答えるだろう。
では、例えば官位などで見たらいかがだろうか。
戦国時代は、室町幕府や朝廷の権威が失墜し、ゆえに国が乱れたとされる。
しかし、いくら下克上の世の中といえども大義名分というのは依然として強い影響力を持っていた。
ゆえに武士たちが様々な官名を手にしている。
その点、上杉謙信がゲットした関東管領はデカい。
なにせ関東を支配する役職であり、しかも、この役職には「専用の輿に乗れて、さらには赤い傘を使える」という、我々から見ればどうでもよい特権が与えられていた。
どうでもよくない!
そう嘆いたのは武田信玄である。
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我々にはサッパリ理解できない感覚だが、上杉謙信の赤い傘を許せなかった武田信玄は、嫉妬のあまり禁じ手を使い、仏教界から「大僧正」という格を買ってしまうのである。
関東管領より格上なのだから、首尾よく入手したときには笑いが止まらなかっただろう。
しかし、この横暴なやり方が、よもやのところで泣きを見ることに……。
もうコレ以上の位はないんですってば
江戸時代のことだ。
武田一門を名乗る幕府の重臣が朝廷にカネを払い、信玄の格を上げようとカネを用意した。
朝廷から「位」を買おうとしたのだ。
そこで問題となったのが、先ほど触れた「大僧正」である。
大僧正とは、仏教界ではトップ。高貴な世界で上に行き過ぎたため、もう俗世間でのランクアップは無理となってしまったのだ。
その影響だろうか。
明治時代に入って武将たちに位が与えられたとき、武田信玄は従三位をいただくかたわら、上杉謙信は従二位を賜ったのである。
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上杉家は貴族扱いになっていたのも大きな要因だっただろう。
家を存続させないことが、こんなカタチで負けにつながるとは、あの世で信玄が勝頼を怒鳴りつけている姿が目に浮かぶ。さらに……。
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