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【信玄と謙信のどちらが勝者?】
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神社争いは謙信の圧倒的勝利
武田信玄ファンも泣きたいだろうが、もう一つ、謙信が後世に影響を与えた功績がある。
それは明治5年に建てられた上杉神社(山形県)と春日山神社(新潟県)である。
いずれも謙信が祀られているところであり、上杉神社に関しては神社界では最高ランクである「別格官弊社」という地位まで入手してしまった。
生前の謙信も越後守護代(長尾家伝統の職)という地方の副知事クラスから一気に関東管領という関東連合総長という半グレのトップに上り詰めたわけだが、神様になってもたいした出世街道である。
対して信玄。
武田神社はあくまでローカルな位置づけだ。
んじゃ、今も謙信の方が人気あるの?と言ったらそうでもない気がする。
武田信玄に関わる大河ドラマや映画などは、上杉謙信よりも圧倒的に知名度が高い。
山本勘助、山県昌景、馬場信春、高坂弾正、真田幸綱(真田幸隆)など名だたる部下がいた信玄に対し、謙信の方はやはり地味だ。
本人が軍神だったため、部下の伝説が残りにくかったのも影響しているのだろうか。
信玄と謙信、お互いをどう思っていた?
長い目で見ると、謙信の「勝ち」のようだが、お互いのことはどう評価していたのか。
これが意外に難しい。昔の人は「感想文」というのを残さない。
少ない史料から「心情」を読み解いた一例が、在野の戦国研究者として知られる鈴木真哉さんだ。
『戦国武将・人気のウラ事情』(→amazon)でこの疑問について触れている。
1561年、謙信は大軍で北条氏康を囲んだが落城できず、引き揚げるときに逆に補給部隊を襲われてしまい、「(松隣夜話という史料に)じぶんが常々、甲斐の武田信玄におよばないと思うのは、こういうところだと言ったという」(122頁)
たしかに言ってそうだ。
ところが、この手の話は怪しいというのが歴史の常で、同史料では小田原攻めの年を間違えたり、呼び名の年代が違ったりと信憑性が低いのだそうだ。うーん、困ったが……ご安心を。
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