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【信玄と謙信のどちらが勝者?】
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信玄だけじゃなく北条氏康のことも
『戦国武将・人気のウラ事情』にはこんな記述もある。
もう少し確かな史料としては、天正2年(1574年)春、木戸伊豆守らに宛てた書状(「謙信公御書」)がある。
謙信は、このとき関東に出兵し、利根川を舟で渡ろうとしたが、北条勢の攻撃を受けて失敗した。
家臣の佐藤筑前という者に、敵の攻撃を受けたらまずいのではないかと尋ねたところ、敵が攻撃してくる地形ではありませんと答えたので、決行したところ失敗したのである。
それで「佐藤ばかもの」と書中で罵っている。
そう言いながら、よくわからない地形では、武田信玄、北条氏康だって失敗しただろうから、自分の失敗も無理はないと弁明している。(123頁)
とまぁ、信玄のことはちゃんと評価していたのだ。
というか、北条氏康のことも?
北条氏康は信玄や謙信と渡りあった名将也~関東を制した相模の獅子 57年の生涯
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そうそう、東日本では北条氏康も同じくらい、重要かつ強い武将ですよね。
本当は、信玄・謙信のライバル関係の中に名前が出てこない氏康が一番かわいそうだったりして……。
ムカつくけど日本無双之名大将だと思います
さて、一方の信玄といえば。
死に際して息子の勝頼に「謙信は義の人だから頼りなさい」と言ったといわれているが、この有名な逸話も実は確実ではない。
結果的に、武田&上杉の同盟が成り立ったから、あとづけで創られた可能性も高い(ちと、さびしいが)。
信玄本人が謙信を評価した史料はなく、信頼性の高い史料として1576年(天正4年)に、甲斐の僧侶が越後の僧侶にあてた書状(「歴代古案」10月15日付け)に、信玄は謙信のことを【日本無双之名大将】とたびたび言っている。
つまり「おたくの大将もすごいね」との内容が記されているのだ。
「自分で文章を書くのは1通が限度で、2通は書けなかったのである」(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』129頁)と、信玄は筆無精だったので、史料には残らずとも、やっぱり「あいつすげー」とは言っていたと考えてよさそうだ。
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文・川和二十六
【参考】
乃至政彦『上杉謙信の夢と野望 (歴史新書y)』(→amazon)
鴨川達夫『武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像 (岩波新書)』(→amazon)
鈴木眞哉『戦国武将・人気のウラ事情 (PHP新書)』(→amazon)
富永商太・川和二十六『戦国時代100の大ウソ』(→amazon)