第五次川中島の戦い

武田・上杉家

第五次川中島の戦いは地味じゃない 関東や越中を巻き込む大構想とは

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海津城に春日虎綱を置き上杉方の動向を探り

一方、武田信玄上杉謙信の出陣を知って、塩崎城まで動きます。

理想は第二次川中島の戦いのように犀川を最前線にしたかったのでしょうが、旭山城はいまだに上杉方の城だったのでしょう。犀川を最前線にするのは不可能でした。

信玄は塩崎城に本陣を置き、もちろん海津城には春日虎綱を中心に信濃の国人衆を置いて上杉方の動向を見張ります。

しかし双方動きません。結局60日間動くことなく経過し、上杉謙信は飯山城まで兵を引きます。

第四次の戦いの異説として、妻女山布陣はなかった説を紹介しましたが、結局、犀川渡河から川中島への進出はこのように決戦は見込めないのはこの第5回の滞陣から分かります。

双方に決戦の戦略があれば別ですが、明らかに武田信玄にその気はありませんからね。謙信もそれは分かっていた上での犀川渡河ならば、今回の謙信にも決戦の意図はなかったのかもしれません。

結局、これが第五次、そして最後の川中島の戦いになります。

って最後は全然戦ってませんけどね。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20150225-10

 

10年に渡る戦いも呆気なく終了 信玄は駿河へ

ということで10年にも渡る川中島の戦いは、あっさりと幕を閉じました。

この後、善光寺平を巡る戦いは起こりません。

というか予定調和のように武田信玄は南下して駿河侵攻にのめり込み、上杉謙信は関東へと進出していきます。

このとき武田、上杉で密約が交わされたという陰謀説も考えられますが、その後、西上野で武田と上杉は細かい衝突を繰り返していますし、確たる証拠もありません。

信玄は息子の勝頼に「困ったら謙信を頼れ」と遺言したなんて話もありますね。

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言外に含まれる何かがあったかもしれません。今となってはそれも不明です。

ただ、当時の状況、起こったことを一つずつ検証していくと見えてくるのは、上杉謙信が関東管領に就任した今となっては、武田信玄が北信濃の飯山城や野尻城にちょっかいを出さなければ謙信は動かないということです。

戦の天才同士は暗黙の了解でここを落としどころにしたのかもしれません。

上杉謙信にとっては亡命してきた村上義清を始めとする北信濃国人衆を多数抱えており、北信濃の奪還を強く要請されていたことでしょうし、武田信玄も北条家との同盟で、関東に侵攻する謙信のけん制のために北信濃からの攻撃を強く要請されていたことでしょう。

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しかし環境の変化とともに宿敵同士の利害が一致するようになり、特に信玄にとっては今後の南下政策で北条氏康今川氏真の義父)との同盟が邪魔になることは目に見えています。

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嫡男・武田義信(嫁が今川義元の娘)と譜代家臣の飯富虎昌を中心とする親今川派との派閥抗争、場合によっては親今川派の粛清にも着手しなければいけません。

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謙信の場合は独立色の強い家臣の統制と上杉憲政や足利幕府との関係のはざまでバランスをとっていかなければなりません。

戦国大名やるのもたいへんよね、ま、お互い新天地でがんばりましょ」ということで双方折り合いがついたといったところでしょうか。

 

最後に……

武田信玄の城を追いながら川中島の戦いをみてきましたが、いかがだったでしょうか。

九割九分が城郭戦で川中島の戦いのイメージが変わったと思います。

「俺は第二次の謙信の旭山城付け城戦術が好きだな」とか。

「城の力攻めは愚策よ。そういう意味では真田幸綱(幸隆)、あいつの調略はパネエ」とか。

「海津城? まあ松代方面では機能するけど川中島での運用はかなり難しい城でもあるね」など。

「一騎打ち」や「きつつきの戦法」のイメージしかなかった川中島の戦いに、新しい視点で盛り上がってもらえるとうれしいですね。

そして川中島の古戦場だけでなく雨飾城の断崖に挑む城マニアが一人でも増えることを期待して、川中島シリーズを終わりたいと思います。

「謙信の留守を狙え」→修正「手を出さなければ謙信は常に留守」 by信玄

信玄については、駿河へ侵攻してから城が巨大化して、より楽しくなるのですが、いったん視点を変えて、信長の城なども見て参りたいと思います。

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筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。

現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。

特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

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