永禄八年(1565年)10月15日は飯富虎昌の命日です。
元祖・武田の赤備えとして知られ、武田義信を支えた虎昌は武田信玄から厚く信頼されていましたが、義信事件が起きると、信玄の命によって死に追い込まれました。
一体なぜなのか?
武田家を揺るがした義信事件で、虎昌が表向きの責任を負わされたのか。

歌川国芳の描いた飯富虎昌/wikipediaより引用
本記事で、飯富虎昌の最期を振り返ってみましょう。
武田家の柱だった飯富虎昌
飯富虎昌は、甲斐の名家・飯富氏の出身です。
武田信虎の代では、他の国衆と組んで武田家に背いたこともありましたが、のちに服属。

武田信虎/wikipediaより引用
信玄の代には信頼を一身に集めていました。
研究者の丸島和洋氏は著書『戦国大名武田氏の家臣団』の中で、虎昌が信玄の嫡男・武田義信の後見人のような立場であったと指摘しています。
傅役(もりやく)とされることも多いのですが、『甲陽軍鑑』にそう明記されているわけではありません。
信濃攻めでも虎昌は最前線で指揮をとり、小県郡の塩田城も任されています。
率いた軍勢は、具足から旗指物まで朱塗りで統一した赤備え軍団。
虎昌の勇名は広く知れ渡っていましたが、その頃、戦国史に残る大事件が勃発します。
桶狭間の戦いです。
甲尾同盟と義信のクーデター未遂
永禄三年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元が討死。
その後、織田信長からの接近で関係構築が進められていた武田信玄は、織田家との同盟に向けて動き、永禄八年(1565年)9月、甲斐と尾張の同盟(甲尾同盟)を成立させます。
今川家と敵対する織田家との同盟は、武田と今川の関係悪化につながりかねないものでした。
義信事件が起きたのはまさにこの頃です。
研究者の平山優氏は著書『武田信玄』の中で、永禄八年(1565年)7月ごろに事件が察知され、10月10日前後にクーデターが実行に移されるも失敗したとしています。
ちょうど甲尾同盟が成立し、武田勝頼と信長養女との婚礼(11月)が行われる、その間の時期でした。

武田勝頼/wikimedia commons
今川義元の娘を妻としていた武田義信が甲尾同盟に反発し、その阻止を図ったのが事件の背景だったというわけですね。
流れをまとめるとこうなります。
永禄八年9月に甲尾同盟が成立
↓
永禄八年10月に義信事件(クーデター未遂)
↓
永禄八年11月に武田勝頼と信長養女の婚礼
ただし、研究者の黒田基樹氏は著書『武田信玄の妻、三条殿』の中で、義信が織田との同盟に反対したことを示す明確な史料は確認できず、事件の理由は未解明だとしています。
時系列は一致しますが、事件の原因として史料で裏づけられているわけではない、ということです。
10月15日 虎昌が事件の責任を負った
飯富虎昌が亡くなった日は、長らくハッキリしませんでした。
それが分かったのは、高野山成慶院に伝わる供養の記録から。
虎昌の供養を依頼した記録に「永禄八年十月十五日」とあり、永禄八年(1565年)10月15日が命日であると確認されたのです。
死の方法は、処刑とも自害ともいわれ、実は不詳となっています。
注目すべきは、その8日後の10月23日に、信玄が上野の国衆・小幡氏へ送った書状でしょう。
【意訳】
飯富兵部少輔(虎昌)の所行によって、信玄と義信の間を裂こうとする陰謀が露見したので、自害させた。
父子の間は、もともと何も問題はないので安心してほしい。
出典:永禄八年10月23日付 武田信玄書状(小幡源五郎宛)
信玄は対外的に、事件を虎昌の企てとして説明し、義信との間に問題はないと強調しました。

近年、武田信玄としてよく採用される肖像画・勝頼の遺品から高野山持明院に寄進された/wikimedia commons
なぜ虎昌だけが名指しで主犯とされてしまったのか。
黒田氏は同書の中で、父子関係に問題はないという説明は領国の動揺を抑えるための方便であり、義信を事件の真の首謀者として処罰したと指摘しています。
実際、義信はこのあと甲府の東光寺に幽閉され、表舞台から姿を消しました。
このため、事件当初は虎昌が義信に代わって表向きの責任を負わされた可能性があります。
残念なことに、これも同時代の詳しい史料が乏しく、虎昌が実際どこまで計画に関わっていたかはわかりません。
『甲陽軍鑑』によれば、義信の側近だった曾根周防や長坂源五郎らも処刑され、義信派は粛清あるいは追放されたとのこと。
同書の記述どおりなら、義信周辺の家臣が一挙に処罰されたことになり、家中の動揺は相当なものだったでしょう。
兄を告発したのは弟の山県昌景だったのか
義信事件には、もうひとつ苦い話が伝わっています。
『甲陽軍鑑』は、飯富虎昌の実弟・飯富昌景(のちの山県昌景)が、信玄暗殺の企てを記した密書を差し出したことで陰謀が確かめられたと記しています。
弟が兄を告発したのが事実なら、昌景にとっては非常に重い決断だったでしょう。
ただし、この事件を詳しく伝えるのもまた『甲陽軍鑑』だけで、どこまで事実かは分かりません。
確かなのは、事件後に飯富氏が断絶とされた一方、昌景は武田家の名門・山県氏を継ぎ、信玄の右腕として重用されていったことでしょう。
意外なのは、虎昌の「赤備え」の継承者です。
一般的には、兄の赤備えを弟の昌景が引き継いだとされます。

山県昌景/wikipediaより引用
しかし丸島氏は同書の中で、『甲陽軍鑑』を見る限り、昌景配下の広瀬郷左衛門尉や三科肥前守は赤い軍装をしておらず、全軍を赤で統一した虎昌隊とは異なると見ています。
そのうえで、武田家の赤備えは虎昌の死後、浅利信種、さらに小幡信真へ受け継がれたと指摘。
昌景が本当に赤備えだったのかどうか、再考を要するというのです。
義信は、2年後の永禄十年(1567年)10月に幽閉先で亡くなりました。
以前は自刃という説が聞かれましたが、現在は病死が有力視されています。
いずれにせよ跡継ぎは勝頼へと移り、武田家の行く末は大きく変わっていくことになりました。
なお、義信事件の顛末は、以下の記事で詳しく扱っています。
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信玄を暗殺しようとして嫡男の派閥が粛清された「義信事件」その顛末
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参考文献
- 平山優『武田信玄』(2006年12月 吉川弘文館)
- 丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団 信玄・勝頼を支えた家臣たち』(2016年6月 教育評論社)
- 黒田基樹『武田信玄の妻、三条殿』(2022年7月 東京堂出版)

