上杉と秀吉の関係

上杉景勝(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用

武田・上杉家

なぜ上杉は真っ先に豊臣大名となったのか?秀吉と景勝の利害は一致

豊臣秀吉が天下人に成り上がり、その死亡後、徳川家康が台頭してくる中で、非常に重要だった大名家はどこか?

その筆頭候補として注目したいのが越後の上杉家です。

上杉謙信本能寺の変前に病没しており、この頃は当主の上杉景勝直江兼続が活躍。

この二人が巧妙に豊臣家に取り入り、その後【関ヶ原の戦い】のキッカケまで作りますが、2023年の大河ドラマ『どうする家康』には、ほとんど全く登場していません。

徳川・真田・北条が絡んだ【天正壬午の乱】でも当事者の一人だったのに、劇中では、動向が全く不明な上杉家。

いったい彼らは秀吉と徳川の天下にどう影響していたのか?

越後の雄の行動を振り返ってみましょう。

 

本能寺の変により、窮地を救われた上杉家

天正10年(1582年)、武田家滅亡の年は、上杉景勝も試練の時を迎えていました。

頭痛の種だったのが揚北衆(あがきたしゅう)。

阿賀川が流れる越後北部の国衆であり、押さえつけている間は心強い味方ですが、少しでも隙を見せれば瞬く間に牙を剥いてくる、厄介な存在でした。

そんな揚北衆の一人・新発田重家が、天正9年(1581年)、上杉家に反旗を翻したのです。

背後には恩賞への不満と、外交の妙手である伊達輝宗の手引きがあったとされます。

伊達輝宗
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しかも重家は、よりにもよって織田信長とも手を組んだのです。

織田家は、本国尾張方面からも圧迫をかけていました。

越後と尾張、両国の間には武田の甲斐がありますが、目に見えて勢いが翳っているところ。

織田・徳川連合軍の侵攻により、天正10年(1582年)にあっさり滅亡すると、次の標的とされたのが上杉家でした。

魚津城が落とされ、織田軍が越中の国境まで迫る中、武田の次は我々か……と、景勝は焦燥したでしょう。

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しかし、その直後に【本能寺の変】が勃発。織田家は上杉攻めどころではなくなります。

景勝は間一髪、窮地を脱したのでした。

このあと上杉家は秀吉に接近し、連絡を取り合うことに成功します。

なお、このころ帰趨を見定めていた真田昌幸が上杉家に接触し、二男の真田信繁(幸村)が人質として送られたとされます。

 

賤ヶ岳の戦いを契機に秀吉へ近づく

豊臣秀吉への接近をはかった上杉景勝。

天正11年(1583年)の【賤ヶ岳の戦い】では、勝家と対峙した秀吉から出兵依頼がありました。

柴田勝家といえば【魚津城の戦い】で激しく攻め立てた相手です。あの柴田を相手にするならば……と上杉軍の士気が高まってもおかしくはありません。

しかし、上杉はこの援軍要請には応じることができません。

背後に新発田重家がいて、なかなか兵を割けなかったのです。

それでも秀吉と上杉の両者は、これを機に同盟が成立します。上杉にとっては仇ともいえる柴田勝家を秀吉が打ち破ったのです。

天下取りへ向かう秀吉――そして、その秀吉にいち早く接近した上杉。

たとえ柴田勝家に勝利しても、まだまだ秀吉には敵がいて、外交を駆使して周囲を牽制する必要があります。

特に、織田信長に仕え、越中を治めていた佐々成政は、まだ服従の気配もなく、上杉からの牽制は非常に効果的でした。

と同時に秀吉は、北陸から駿河へ目を向けました。

信長の遺児である織田信雄が、徳川家康と共に対抗してきたのです。

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