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【上杉と秀吉の関係】
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小牧・長久手の戦いでも牽制役
天正12年(1584年)に始まった【小牧・長久手の戦い】は、以下のような対立構図でした。
◆羽柴秀吉
with上杉景勝
vs
◆織田信雄
with徳川家康・佐々成政
兵数では秀吉が信雄・家康連合軍を圧倒している。
しかし戦場では徳川の奮戦もあり、事態は膠着。その理由として、秀吉は「景勝に責任の一端がある」と思わせるようなことを伝えてきます。
「味方が一致団結しないのが苦戦の一因ではないか?」
そして事態打開のため、上杉へ条件を出してきました。
景勝が人質を出し、従属を確固たるものとし、一丸となって当たればよい――。
この指摘は、あながち的外れでもありませんでした。
上杉は新発田を警戒し、思うように秀吉を救援できていない。
秀吉としては上杉を上洛させたい。東国を押さえる上で、北陸のみならず、奥羽ひいては関東にまで影響力がある上杉は非常に役に立つ。
むろん上杉にとっても、織田家の筆頭に躍り出た秀吉に早い段階で味方しておくことは、大きなメリットとなる。
だからでしょう。天正13年(1585年)に秀吉は富山まで来ております。
このとき上杉景勝らと会談したという記述が軍記などに登場するのですが、実際にあったとされる記録は残っていません。
両者の利害が一致していることは間違いなかったでしょう。
上洛を果たし、いち早く豊臣大名へ
天正14年(1586年)、ついに上杉景勝が上洛を果たします。
この年の秀吉は、妹・旭を徳川家康の正室とし、さらには母・大政所を駿府に送って、家康にも上洛を促していました。
直前に【天正大地震】が起きたため、力づくで天下を取るのではなく、外交交渉力を用いる方針転換が見て取れます。
越後の上杉家が秀吉の下へ馳せ参じたとなれば、東国にも衝撃を与えたことでしょう。関東の北条がまだ片付かないからには、それがよい手といえます。
【本能寺の変】が起きる前は、未曾有の危機にさらされていた上杉家。
次の天下人となる秀吉にいち早く接近したことで、むしろ大大名としての地位が盤石となったのです。
上杉景勝には、朴訥な印象があります。
実際に威厳があり生真面目で質実剛健であったとされ、上杉家中の気風もそうであったとされます。
しかし、豊臣大名へと駆け上る景勝の戦術は実に巧みです。
秀吉の「人たらし」とうまく合致したのか。石田三成と相性があったのか。才気あふれる直江兼続の手柄か。
表立って目立ちはしないけれども、器用に天下を立ち回る姿が見えてきます。
一方で、そこにはデメリットもあります。
政権中枢へ接近すればするほど、その運営が立ち行かなくなったとき、身の置き所がなくなってしまう。
慶長3年(1598年)8月18日、太閤殿下・秀吉が亡くなるのでした。
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