上杉と秀吉の関係

上杉景勝(左)と豊臣秀吉/wikipediaより引用

武田・上杉家

なぜ上杉は真っ先に豊臣大名となったのか?秀吉と景勝の利害は一致

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東北の関ヶ原への道筋が見えてくる

秀吉の生前、上杉家のライバルたちは苦境に立たされていました。

庄内地方を巡って対立していた出羽の最上義光は、秀吉との交渉ルートを探ろうにも、上杉家がネックとなっていた。

そこで最上が頼りにしたのが、東国の押さえに入っきた徳川家康です。

最上義光は【秀次事件】によって娘の駒姫が連座したことにより、秀吉を見限ったとされますが、実際は、ずっと以前から徳川に接近をはかっていました。

駒姫
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奥羽を代表するもうひとりの大名・伊達政宗も当初は秀吉を評価していましたが、秀次事件を機に、徳川へのシフトを決めたとされます。

そんな陸奥に対して秀吉は、一番の要衝である会津に気脈の通じた蒲生氏郷を置き、睨みを利かせました。

文禄4年(1595年)に氏郷が没すると、まだ幼い蒲生秀行が跡を継ぎますが、陸奥の押さえとするには重みが足りない。

そこで上杉の出番となります。

越後から会津へ移封され、伊達政宗や最上義光を見張ることとなったのです。

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直江状から関ヶ原へ

秀吉の死後は景勝が【五大老】にも任じられますが、一方で、伊達と最上は重石がとれたように堂々と、五大老の一人である徳川家康へ接近。

上杉の重責は、ますます強まります。

【五大老】の中で家康が突出すると、他の四人は牽制を図ろうとしました。

そして、上杉と徳川の対立も日増しに深刻になってゆき、ついには対戦不可避のところまで突き進んでゆきます。

直江兼続の記した【直江状】が、天下分け目の戦いの口火を切るのです。

直江状
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それから結果は皆さんご存知の通り。

関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、上杉家も大減封された上で出羽米沢藩となり、一気に厳しい財政状況へ。

原因を作ったとされる兼続は、江戸期に奸臣と見なされることもあれば、痛快な背き方をした人物とされることもありました。

現在の上杉家は、大河ドラマ『天地人』や様々なゲームにおいて「義を重んじた家」として人気を集めています。

しかし現実には「義」という概念ではなく、存続の危機にすら陥ってたときは、素早い外交交渉が同家を救っていたのでした。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
渡邉大門編『秀吉襲来』(→amazon
小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』(→amazon
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon
日本史史料研究会・白峰旬 『関ヶ原大乱、本当の勝者』(→amazon

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