Gacktさんの上杉謙信が話題となった2007年大河ドラマ『風林火山』。
同作品にはもう一人、往年の映画ファンにはたまらないキャスティングがありました。
千葉真一さんが大河ドラマの初出演を果たしたのです。
『仁義なき戦い 広島死闘篇』の大友勝利や、『柳生一族の陰謀』以来の当たり役となった柳生十兵衛、あるいは『陰の軍団』シリーズの服部半蔵など。
数々の名作で、キレのあるアクションとワイルドさを披露していた千葉さんが『風林火山』で演じたのが、本記事の主役・板垣信方――。
1988年の大河『武田信玄』では菅原文太さんが扮した武田家の重臣であり、千葉さんの信方が討死を遂げる場面では、武田晴信役の市川亀治郎さん(現在は市川猿之助さん)が「板垣〜!」と絶叫して、大河ファンの心を揺さぶったものです。
では史実における板垣信方とは、どんな人物だったのか?
天文17年(1548年)2月14日はその命日。
板垣の生涯を振り返ってみましょう。
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晴信の傅役として描かれることが多い
大河ドラマ『風林火山』のストーリーは、原作および2007年放映時に共有されていた武田信玄とその周辺の人物像に沿って展開します。
武田信虎は暴虐であり、幼い晴信は父に対して劣等感がある。
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そんな晴信を教え導き支える、いわば心の父であり師のような傅役を務めたのが板垣信方。
甘利虎泰とともに、若き主君を見守り育てた役割を果たします。
ドラマではこの像が印象的に描かれており、晴信がいかに板垣信方と甘利虎泰を慕っていたかがわかる構成でした。
フィクションであり、かつ実在を疑う説もあった山本勘助が主役だったせいか、
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『風林火山』は脚色が豊かな作風です。
武田信虎に愛するミツを惨殺された勘助は、武田に恨みを抱き襲い掛かろうとして、それを取り押さえたのが板垣信方。
紆余曲折を経て勘助は武田に仕えることとなり、そこで大役を背負わされたのが板垣でした。
演じる千葉真一さんは殺陣の経験と技術があり、出演者と大いに語り合っていたとされます。
役と演者が一致する贅沢な時間が『風林火山』の撮影ではありました。
しかし、なぜこうも大胆な設定がなされたのか。
板垣信方は、板垣信泰の子と推定されるものの、生年は未詳で、不明な点も多い。
なかなか難しい人物なのです。
板垣氏は河内源氏義光流
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、八嶋智人さんが演じる武田信義が登場しました。
源義光の子孫である河内源氏義光流にあたる人物であり、河内源氏義家流の源頼朝に危険視されていた武士です。
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彼の嫡男であり、前原滉さんが演じた一条忠頼は、騙し討ちによって命を落としています。
源義光の血を引く甲斐源氏の台頭を警戒した源頼朝が、木曾義仲の残党を征伐する名目でこの一族を圧迫したのです。
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そんな武田信義の三男・兼信が、甲斐の板垣郷に住み、兄亡き後の甲斐源氏として幕府に仕えました。
そしてその子孫たちが板垣氏へ。
板垣信方を輩出した板垣氏は、武田信義の子孫である点において、主君である武田氏と一致していたのです。
では、その板垣氏の中で、信方はいかなる働きをしていたのか?
信虎の代から活躍
前述の通り、板垣信方の生年は不明です。
武田家には信虎時代に仕え、活躍していたとされます。
天文9年(1540年)には信濃佐久郡へ大将として出陣し、臼田・入沢城はじめ数十の城を攻略。
前山城を改修し、そこにいたとされます。
その後も、諏訪郡を攻略する将として、活躍しました。
しかし、板垣の功績としてフィクションで盛り上がるのが、天文10年(1541年)の信虎追放でしょう。
『風林火山』でもそうでした。思いを打ち明け、父を追放できなければ生きてたくないと打ち明ける晴信。励ます信方。
『甲斐国志』によると、いざ信虎を追放して当主となった晴信は、板垣信方と甘利虎泰を武田家最高職である「両職」に任じたとされます。
ただし、これには確証がありません。
天文11年(1542年)7月、武田晴信は高遠頼継と手を組み、諏訪郡攻めの最終段階に入ります。
諏訪頼重を降し、板垣郷東光寺で自害させたのです。
この諏訪頼重の娘が晴信の側室であり、勝頼の母である諏訪御料人。『風林火山』だけでなく、様々な武田関連フィクションでヒロインとされる女性です。
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諏訪攻略の先駆けである信方は、この過程においても活躍しています。
ただし信方は、功績が大きいゆえに増長しており、『甲陽軍鑑』等では晴信が歌で戒めたとも伝わります。
誰もみよ
満つればやがて欠く月の
十六夜ふ空や
人の世の中
見てごらん。満つれば欠けてゆく月よ。人の世とは十六夜の空のようなものだ。
天文14年(1545年)に高遠城を攻略し、高遠頼継が武田に降伏すると、2年後の天文16年(1547年)には武田氏による諏訪郡攻略が果たされました。
諏訪郡攻略にあたってきた板垣信方にとっては、この満月のような絶頂にあったといえます。
そして天文17年(1548年)、28歳の武田晴信は新たなる敵と対峙します。
葛尾城を本拠とする村上義清です。
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