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【板垣信方】
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上田原に散る
天文17年(1548年)2月――躑躅ヶ崎館を出た武田晴信は、七千の兵を率いて小県郡へ向かいました。
【上田原の戦い】です。
先鋒を務めるのは3,500の兵を率いる板垣信方。
精鋭部隊はたちまち敵を蹴散らしてゆきます。
しかし――。
休息中か、首実検中か、深追いして敵の槍襖に囲まれたか。
何らかの油断により、板垣信方はこの合戦で討ち取られてしまったのです。
救援に向かった甘利虎泰まで命を落としてしまい、勢いに乗った村上勢は武田軍の本陣まで突入。
晴信は左手に傷を負うなど、かつて味わったことのない大敗北を喫しました。
合戦後もすぐには陣を解かずに警戒していたところ、戦況は不利に働きます。
晴信に押さえつけられていた反対勢力が武田家に反いたのです。
板垣信方と甘利虎泰という両雄を失った晴信。
天文20年(1550年)には戸石城でも村上義清に手痛い敗北を喫し、【戸石崩れ】と呼ばれる敗戦を重ねます。
そしてその後は天文22年(1552年)に葛尾城を攻略し、上杉景虎(上杉謙信)のもとへ追いやるまで、村上義清は武田晴信にとって宿敵であり続けました。

上杉謙信/wikipediaより引用
幕末の板垣退助へ
甘利虎泰と板垣信方が散った――。
【上田原の戦い】は、名将・武田信玄、青年期の敗北として歴史に刻まれています。
その後の板垣氏はどうなったのか?
というと信方には、板垣信憲(のぶのり)という息子がいました。
信憲は合戦時の不行跡等が原因で武田家から放逐後、誅殺され、板垣氏は断絶。
同族である於曾信安によって再興されます。
そして彼らの子孫が、幕末土佐藩で活躍し、明治時代には自由民権運動の担い手として先頭に立った板垣退助へと繋がっています。

板垣退助/国立国会図書館蔵
★
大河ドラマ『風林火山』第28話「両雄死す」は、大河史でも屈指の迫力です。
敵に包囲された信方はそれでも果敢に戦い、全身に矢を受け、ようやく斃れる。
「板垣〜!」という晴信の絶叫が、未だ耳に残っている方もいらっしゃるでしょう。
あれほどの大人数で囲まねば勝てない信方の強さ。
父のように自分を見守ってくれる将を失った晴信の嘆き。
そして信方を討ち取った村上勢の強さ。
板垣信方という人物像は、凄絶な討死から、活躍が逆算されたと思える点はあります。
信玄が喫した苦い敗戦の象徴でもあります。
大河ドラマ『風林火山』は果敢な挑戦で、その人物像を描いたと言えるのではないでしょうか。
2021年に千葉真一さんは亡くなり、『風林火山』の板垣信方は、偉大なるアクションスター唯一の大河ドラマとなりました。
後進の者を導き、遺産を残してゆく――そんな彼にふさわしい人物が板垣信方でした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
歴史読本『甲斐の虎 信玄と武田一族』(→amazon)
他