Gacktさんの上杉謙信が話題となった2007年大河ドラマ『風林火山』。
同作品にはもう一人、往年の映画ファンにはたまらないキャスティングがありました。
千葉真一さんが大河ドラマの初出演を果たしたのです。
『仁義なき戦い 広島死闘篇』の大友勝利や、『柳生一族の陰謀』以来の当たり役となった柳生十兵衛、あるいは『陰の軍団』シリーズの服部半蔵など。
数々の名作で、キレのあるアクションとワイルドさを披露していた千葉さんが『風林火山』で演じたのが、本記事の主役・板垣信方です。
1988年の大河『武田信玄』では菅原文太さんが扮した武田家の重臣。
千葉さんの信方が討死を遂げる場面では、武田晴信役の市川亀治郎さん(現在は市川猿之助さん)が「板垣〜!」と絶叫して、大河ファンの心を揺さぶったものです。
では史実における板垣信方とは、どんな人物だったのか?
1548年3月23日(天文17年2月14日)はその命日。

板垣信方肖像画(恵林寺蔵・松本楓湖画)/wikipediaより引用
板垣の生涯を振り返ってみましょう。
晴信の傅役として描かれることが多い
大河ドラマ『風林火山』のストーリーは、原作および2007年放映時に共有されていた武田信玄とその周辺の人物像に沿って展開します。
武田信虎は暴虐であり、幼い晴信は父に対して劣等感がある。

武田信虎/wikipediaより引用
そんな晴信を教え導き支える、いわば心の父であり師のような傅役を務めたのが板垣信方。
甘利虎泰とともに、若き主君を見守り育てた役割を果たします。
ドラマではこの像が印象的に描かれており、晴信がいかに板垣信方と甘利虎泰を慕っていたかがわかる構成でした。
むろんフィクションであり、かつ実在を疑う説もあった山本勘助が主役だったせいか、
『風林火山』は脚色が豊かな作風です。
武田信虎に愛するミツを惨殺された勘助は、武田に恨みを抱き襲い掛かろうとして、それを取り押さえたのが板垣信方。
紆余曲折を経て勘助は武田に仕えることとなり、そこで大役を背負わされたのが板垣でした。
演じる千葉真一さんは殺陣の経験と技術があり、出演者と大いに語り合っていたとされます。
役と演者が一致する贅沢な時間が『風林火山』の撮影ではありました。

山本勘助/wikipediaより引用
しかし、なぜこうも大胆な設定がなされたのか。
板垣信方は、板垣信泰の子と推定されるものの、生年は未詳で、不明な点も多い。
なかなか難しい人物なのです。
板垣氏は河内源氏義光流
2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、八嶋智人さんが演じる武田信義が登場しました。
源義光の子孫である河内源氏義光流にあたる人物であり、河内源氏義家流の源頼朝に危険視されていた武士です。

韮崎市役所前の武田信義像/photo by タイスキ大好き
彼の嫡男であり、前原滉さんが演じた一条忠頼は、騙し討ちによって命を落としています。
源義光の血を引く甲斐源氏の台頭を警戒した源頼朝が、木曾義仲の残党を征伐する名目でこの一族を圧迫したのです。
そんな武田信義の三男・兼信が、甲斐の板垣郷に住み、兄亡き後の甲斐源氏として幕府に仕えました。
そしてその子孫たちが板垣氏へ。
板垣信方を輩出した板垣氏は、武田信義の子孫である点において、主君である武田氏と一致していたのです。
では、その板垣氏の中で、信方はいかなる働きをしていたのか?
信虎の代から活躍
前述の通り、板垣信方の生年は不明です。
武田家には信虎時代に仕え、活躍していたとされます。
天文9年(1540年)には信濃佐久郡へ大将として出陣し、臼田・入沢城はじめ数十の城を攻略。
前山城を改修し、そこにいたとされます。
その後も、諏訪郡を攻略する将として、活躍しました。
しかし、板垣の功績としてフィクションで盛り上がるのが、天文10年(1541年)の信虎追放でしょう。
『風林火山』でもそうでした。思いを打ち明け、父を追放できなければ生きてたくないと打ち明ける晴信。励ます信方。
『甲斐国志』によると、いざ信虎を追放して当主となった晴信は、板垣信方と甘利虎泰を武田家最高職である「両職」に任じたとされます。

こちらは甘利虎泰の息子・甘利信忠を描いた浮世絵(歌川国芳作)/wikipediaより引用
ただし、これには確証がありません。
天文11年(1542年)7月、武田晴信は高遠頼継と手を組み、諏訪郡攻めの最終段階に入ります。
諏訪頼重を降し、板垣郷東光寺で自害させたのです。
この諏訪頼重の娘が晴信の側室であり、勝頼の母である諏訪御料人。
『風林火山』だけでなく、様々な武田関連フィクションでヒロインとされる女性です。
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諏訪攻略の先駆けである信方は、この過程においても活躍しています。
ただし信方は、功績が大きいゆえに増長しており、『甲陽軍鑑』等では晴信が歌で戒めたとも伝わります。
誰もみよ
満つればやがて欠く月の
十六夜ふ空や
人の世の中
見てごらん。満つれば欠けてゆく月よ。人の世とは十六夜の空のようなものだ。
天文14年(1545年)に高遠城を攻略し、高遠頼継が武田に降伏すると、2年後の天文16年(1547年)には武田氏による諏訪郡攻略が果たされました。
諏訪郡攻略にあたってきた板垣信方にとっては、この満月のような絶頂にあったといえます。
そして天文17年(1548年)、28歳の武田晴信は新たなる敵と対峙します。
葛尾城を本拠とする村上義清です。
上田原に散る
天文17年(1548年)2月――躑躅ヶ崎館を出た武田晴信は、七千の兵を率いて小県郡へ向かいました。
【上田原の戦い】です。
先鋒を務めるのは3,500の兵を率いる板垣信方。
精鋭部隊はたちまち敵を蹴散らしてゆきます。
しかし――。
休息中か、首実検中か、深追いして敵の槍襖に囲まれたか。
何らかの油断により、板垣信方はこの合戦で討ち取られてしまったのです。
救援に向かった甘利虎泰まで命を落としてしまい、勢いに乗った村上勢は武田軍の本陣まで突入。
晴信は左手に傷を負うなど、かつて味わったことのない大敗北を喫しました。
合戦後もすぐには陣を解かずに警戒していたところ、戦況は不利に働きます。
晴信に押さえつけられていた反対勢力が武田家に反いたのです。
板垣信方と甘利虎泰という両雄を失った晴信。
天文20年(1550年)には戸石城でも村上義清に手痛い敗北を喫し、【戸石崩れ】と呼ばれる敗戦を重ねます。
そしてその後は天文22年(1552年)に葛尾城を攻略し、上杉景虎(上杉謙信)のもとへ追いやるまで、村上義清は武田晴信にとって宿敵であり続けました。

上杉謙信/wikipediaより引用
幕末の板垣退助へ
甘利虎泰と板垣信方が散った――。
【上田原の戦い】は、名将・武田信玄、青年期の敗北として歴史に刻まれています。
その後の板垣氏はどうなったのか?
というと信方には、板垣信憲(のぶのり)という息子がいました。
信憲は合戦時の不行跡等が原因で武田家から放逐後、誅殺され、板垣氏は断絶。
同族である於曾信安によって再興されます。
そして彼らの子孫が、幕末土佐藩で活躍し、明治時代には自由民権運動の担い手として先頭に立った板垣退助へと繋がっています。

板垣退助/国立国会図書館蔵
★
大河ドラマ『風林火山』第28話「両雄死す」は、大河史でも屈指の迫力です。
敵に包囲された信方はそれでも果敢に戦い、全身に矢を受け、ようやく斃れる。
「板垣〜!」という晴信の絶叫が、未だ耳に残っている方もいらっしゃるでしょう。
あれほどの大人数で囲まねば勝てない信方の強さ。
父のように自分を見守ってくれる将を失った晴信の嘆き。
そして信方を討ち取った村上勢の強さ。
板垣信方という人物像は、凄絶な討死から、活躍が逆算されたと思える点はあります。
信玄が喫した苦い敗戦の象徴でもあります。
大河ドラマ『風林火山』は果敢な挑戦で、その人物像を描いたと言えるのではないでしょうか。
2021年に千葉真一さんは亡くなり、『風林火山』の板垣信方は、偉大なるアクションスター唯一の大河ドラマとなりました。
後進の者を導き、遺産を残してゆく――そんな彼にふさわしい人物が板垣信方でした。
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【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
歴史読本『甲斐の虎 信玄と武田一族』(→amazon)
他






