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【穴山信君(穴山梅雪)】
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本能寺の変
天正10年(1582年)、穴山梅雪は信長に招かれ家康と共に安土へ。
その後、京都へ向かい、堺の町を見物してからいざ帰国……という道中で、驚愕の知らせが届けられます。
【本能寺の変】による信長横死の一報でした。
京都を中心に畿内へ広がるであろう明智軍の探索。
捕まればタダではすまない……とばかりに梅雪も家康も慌てて堺を後にしますが、真逆の結果が待ち受けていました。
徳川家康は【伊賀越え】で帰国を果たす一方、別ルートを進んだ梅雪は、京都郊外の宇治山原で野盗に襲われてしまいます。
そこであえなく落命してしまたのです。
享年42。
主君を裏切った挙句、あっさりと討たれてしまったこの展開から、情けないヤツだ、裏切り者め、と酷評を与えられてしまうのは致し方ない面があります。
しかし、【本能寺の変】に遭遇しなければ上手な世渡りと言えるのではないでしょうか。
同じように武田を裏切り、一門ごと誅殺された小山田信茂よりもはるかにスムーズな交渉術を発揮したわけです。
見性院の慈悲
家康は、穴山梅雪の遺族を律儀に遇しました。
遺児・勝千代を信治として元服させ、武田家後継者として養育したのです。
しかし天正15年(1587年)、子のないまま天然痘により落命。享年16。
これで甲斐武田の血筋も完全に絶えてしまい……ませんでした。
梅雪の正室である見性院は、武田信玄の娘にあたり、家康はこの見性院に五男・万千代、のちの信吉を託します。
しかしこの信吉も二十歳で亡くなってしまうと、家康は見性院に扶持を与え、江戸城北の丸に住まわせました。
見性院は天下人となった徳川一族にとって、親戚のおばあさんのような立ち位置におさまり、残りの人生を徳川家と共に過ごしました。
徳川秀忠が、侍女・お静に産ませた男児を異母妹・信松尼と共に育てるのです。
正室・お江の目を恐れた秀忠が見性院らに任せたこの男児こそ、後の保科正之。
江戸期の名君として知られる正之が無事に育てられた恩義は、正之が藩祖となった会津藩松平家へと続き、後に松平容保が見性院の墓塔を建てています。
幕末、会津藩のもとには新選組がおりました。
近藤勇以下、多摩出身の隊士たちは、先祖までたどれば武田家臣にいきつくと信じていたとされます。
穴山梅雪は裏切り者の印象が強い一方、その正室のゆかりが幕末の忠義に連なるのですから、歴史とはおもしろいものです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
高野賢彦『甲州・武田一族衰亡史』(→amazon)
他